★日米が開戦してもうすぐ六十九年になる。歴史の風化というが当時のことを記憶している人は七十代の後半老人たち達である。
此の事を予測して忘れ去られる前に記録しようとしたのが、このHP「私の十二月八日を立ち上げた方である。彼はこの紙面を公開し「私の十二月八日」に記録するよう働きかけた。
それに応えてかなりの数の方々が手記を寄せている。
この手記をプログで紹介しようと思い立った。是非お読みいただきたい。
ネット虫
「私の十二月八日」からは、http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19411208.htm
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緊張で身震い
塚田 茂
(当時:中学校2年生)
開戦の日、私は大阪市立東商業学校の2年生でした。学校へ行くと、すぐ校庭に全校生徒は集められ、校長からわが国がアメリカ・イギリス軍と戦争状態になった話がありました。今でも鮮明に思い出します。 私は緊張で身震いしました。
結局、戦争に敗れて、我々は大変な困難な時代を過した訳ですが、軍閥、(特に陸軍)が権力を振り回していたことを思えば、戦後、日本人が自由を得てよかったと思います。
同時に、東南アジアの諸国が、英仏蘭の植民地から解放されたのを、何時の日か後世の歴史が語ってくれることでしょう。
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母はご飯がのどを通らなかった
宮下春子
(当時:5歳)
十二月八日は小学四年生の姉の懇談会があり、姉が通っている小学校に行きました。午前は授業参観、午後は個人懇談会がありました。午前の参観が終わり畳敷きの裁縫室でお弁当を食べていました。
そこに先生が入ってきて何か話したのですが、話の内容が日米の開戦であった事は勿論分かりませんでした。
ずっと後になって母からその時の思い出話を聞きました。
「叔父さん(母の弟、当時27歳)が戦争に行くんじゃないかと思うと、ご飯がのどを通らなかった」
母子家庭でラジオがなく母はお昼に先生の話を聞くまで開戦を知らなかったのでしょう。
興奮した調子の放送
指方英佑
(当時:国民学校2年生)
国民学校(小学校)2年生の冬、すなわち昭和16年(1941年)12月8日にあの忌まわしい、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争に突入した。このときからの数年間は正にこの国の暗黒の時代であった。
この日の朝のことはいまだに鮮明に覚えている。確か早朝にラジオで開戦の放送が行われた。とても寒い晴れた日であった。ラジオは「今朝?わが軍は太平洋上にて米国と戦闘状態に入れり、戦果は○○‥」と非常に高揚したアナウンスの声を何度となく繰り返し流していた。
なぜか何時は職業柄(出版物編集者)早起きはしたことがない親父が飛び起き、縁側のガラス戸や座敷の障子を全て開け放したのだ。寒気がどっと流れ込んできた。寒いのでフトンにもぐりこんでいた私は「一体何事だ!」と思ったが、たたき起こされてしまったのを覚えている。
ラジオ放送は興奮した調子で同じことを繰り返していたと思う。なんだか判らないが、ただならぬものを感じ、子供心にも厳粛な気分になった。インテリの端くれだった親父が何故こんな行動を取ったのか分からないがその時の気持ちを率直に表したかったのだろう。
この頃から後年、ウソの代名詞になった「大本営発表」がラジオや新聞で軍部の戦果の発表として行われ、我々はそのでたらめな内容に惑わされることになるのだが、この時のアナウンスの調子や内容は、今北朝鮮のテレビなどでキャスターが勿体つけてオーバーなアクションでしゃべっている調子にそっくりであった。
日本語と韓国語発音は非常に似通っているのでなお更である。北朝鮮の国民が騙されないことを心から望むものだが所詮ムリな話だろう‥。
父の出征中に
福井厚子
(当時:国民学校4年生)
私は当時国民学校4年生でした。開戦当日のことは記憶も大分薄れましたが当時の周辺の様子などを思い出しながら書いてみます。
亡父は開戦前の昭和16年夏に私を頭に幼子3人と亡母を残し出征しました。平服、頭はそのまま丸坊主不可、隣近所の挨拶もなし、風呂敷1つで見送りもない淋しい出征でした。すべて軍の命令で秘密裏の開戦準備です。
昭和12年の日中戦争にも応召しましたが、祝い酒、祝応召の幟、道路整理のお巡りさんと、まるでお祭り騒ぎで母の心中はいかばかりであったろうと思います。
間もなく北満のハルピンより軍事郵便が届くようになりました。筆まめの父からの便りが暫く途絶え心配していたら12月8日の大本営発表です。同時に真珠湾攻撃の大勝利の発表で鬼畜米英、一億一心の言葉が巷に溢れていました。子供心にも戦争に向かって押せ押せの時代で世の中の殆ど人々は気持ちが高揚していたと思います。子供心にも「欲しがりません勝つまでは」と言うような気持ちでした。暫くして南方派遣からの便りが届くようになり後に当時の昭南島今のシンガポールと分かりました。開戦と同時にマレー半島に上陸して南下、かなりの激戦地だったと思います。
当時は出征兵士の家庭は珍しくなく銃後の守りと誇りにし又学校でも父に恥じないようにとすぐに言われました。表向きとは違い父の居ない家庭は淋しい限り父は遠く離れた家族に思いを馳せていたと思います。
12月8日朝、横須賀軍港に帰港
菊池金雄
(海軍徴用船・次席通信士)
当事私は海軍徴用船「恵昭丸」(大同海運の貨物船、5800総トン)の次席通信士として乗り組んでいた。この船の任務は南洋群島の島々に散在する海軍航空隊の基地に、ドラム缶入り航空ガソリンの輸送だった。
現地に着いたら、各島々が不沈空母的に飛行場が設営され、まるでトンボが群れるように海軍機が離着陸し、戦争がはじまったような錯覚にとらわれた。
各小島には大型船の荷役桟橋もなく、はしけでの陸揚げ作業に長時日を要し、約一ヶ月後に横須賀向け帰路につき、12月8日朝東京湾口にさしかかった。そして開戦のラジオ放送があり、横須賀に入港したら軍人たちは殺気だっていた。
同船は任務がら、遠からず開戦予想はしていたが、まさかこの日とは意外だった。実は前夜(7日)東京湾の入り口で触雷した日本の貨物船から国際遭難電波である500キロサイクルでSOSが発信された。まさか翌日開戦するとは部外者は知るはずもなく。船内でも「いったい日本海軍どうなってるの?」と不審感をかもしたのは当然であろう。
ところが、くだんのSOSは一回発信されただけで尻切れとんぼになった。通常なら最寄り陸上海岸局や、近在の各航行船舶から救助のための通信が殺到するのであるが、そんな気配もなく、全く不可解なSOSであった。
後日、本件を検証するに、翌日の開戦に間に合うように海軍が東京湾口に防潜機雷柵を敷設中に前記貨物船が触雷したため、海軍側があわてて各方面に無線封鎖を厳命したものと推察される。例えば、銚子海岸局には海軍から情報将校が駐在し,この種機密情報は即時封印されたものと思われ、同局OBに本件感知の有無を尋ねたが、耳にしたことなしとのことであった。若しこのSOSをキャッチしたOBが居られるなら是非お知らせくださるようお願いします。
「硝煙の海」
http://www.geocities.jp/kaneojp/
ほとんど覚えていなかった
和田喜太郎
(当時:国民学校5年生)
たしか国民学校に呼称が変わって5年生でしたが、1941年12月8日のことはほとんど覚えていません。ただ、級長の西岡君が「やったやった」「今朝お父さんと話したんだ」などと、一人ではしやいでいたことだけは覚えています。
アタマのいい級長の開口一番のせいか、みんなは白けていました。校長や担任が朝礼などで何か言った筈ですが、これも覚えていません。だいたいが私ら、みんなアホでしたから、親と天下国家の大事について話すこともなく、級友や近所の子ども仲間とも、日米開戦を期待する論議など全くしなかったのでないかと思います。
ラジオは金持ちの家しかありませんでした。新聞くらいはどの家でもとっていましたが、私ら子どもがそれほど読んでいたとは思えません。
西岡君はどこか都会からの転校生で、父親は実業学校の教師でこの町の学校に赴任したわけです。西岡君は男前で、しゃべる言葉も標準語で持ち物だって私らのような安もんと違っていました。6年を卒業すると、彼のようにエエトコのぼんぼんで頭のいいもんは旧制の中学に進学しましたので、その後の消息は知りません。
年齢や思考力の問題もありますが、「大東亜戦争」開戦当時はまだのんびりしていました。しかしそれからが、物不足、召集や徴用、勤労動員など戦時色が次第に強くなり、戦争のなかにいることを実感するようになりました。
でも古参兵とかで無事に帰還しました。60年余前のことですが涙が出そうです。
此の事を予測して忘れ去られる前に記録しようとしたのが、このHP「私の十二月八日を立ち上げた方である。彼はこの紙面を公開し「私の十二月八日」に記録するよう働きかけた。
それに応えてかなりの数の方々が手記を寄せている。
この手記をプログで紹介しようと思い立った。是非お読みいただきたい。
ネット虫
「私の十二月八日」からは、http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19411208.htm
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緊張で身震い
塚田 茂
(当時:中学校2年生)
開戦の日、私は大阪市立東商業学校の2年生でした。学校へ行くと、すぐ校庭に全校生徒は集められ、校長からわが国がアメリカ・イギリス軍と戦争状態になった話がありました。今でも鮮明に思い出します。 私は緊張で身震いしました。
結局、戦争に敗れて、我々は大変な困難な時代を過した訳ですが、軍閥、(特に陸軍)が権力を振り回していたことを思えば、戦後、日本人が自由を得てよかったと思います。
同時に、東南アジアの諸国が、英仏蘭の植民地から解放されたのを、何時の日か後世の歴史が語ってくれることでしょう。
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母はご飯がのどを通らなかった
宮下春子
(当時:5歳)
十二月八日は小学四年生の姉の懇談会があり、姉が通っている小学校に行きました。午前は授業参観、午後は個人懇談会がありました。午前の参観が終わり畳敷きの裁縫室でお弁当を食べていました。
そこに先生が入ってきて何か話したのですが、話の内容が日米の開戦であった事は勿論分かりませんでした。
ずっと後になって母からその時の思い出話を聞きました。
「叔父さん(母の弟、当時27歳)が戦争に行くんじゃないかと思うと、ご飯がのどを通らなかった」
母子家庭でラジオがなく母はお昼に先生の話を聞くまで開戦を知らなかったのでしょう。
興奮した調子の放送
指方英佑
(当時:国民学校2年生)
国民学校(小学校)2年生の冬、すなわち昭和16年(1941年)12月8日にあの忌まわしい、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争に突入した。このときからの数年間は正にこの国の暗黒の時代であった。
この日の朝のことはいまだに鮮明に覚えている。確か早朝にラジオで開戦の放送が行われた。とても寒い晴れた日であった。ラジオは「今朝?わが軍は太平洋上にて米国と戦闘状態に入れり、戦果は○○‥」と非常に高揚したアナウンスの声を何度となく繰り返し流していた。
なぜか何時は職業柄(出版物編集者)早起きはしたことがない親父が飛び起き、縁側のガラス戸や座敷の障子を全て開け放したのだ。寒気がどっと流れ込んできた。寒いのでフトンにもぐりこんでいた私は「一体何事だ!」と思ったが、たたき起こされてしまったのを覚えている。
ラジオ放送は興奮した調子で同じことを繰り返していたと思う。なんだか判らないが、ただならぬものを感じ、子供心にも厳粛な気分になった。インテリの端くれだった親父が何故こんな行動を取ったのか分からないがその時の気持ちを率直に表したかったのだろう。
この頃から後年、ウソの代名詞になった「大本営発表」がラジオや新聞で軍部の戦果の発表として行われ、我々はそのでたらめな内容に惑わされることになるのだが、この時のアナウンスの調子や内容は、今北朝鮮のテレビなどでキャスターが勿体つけてオーバーなアクションでしゃべっている調子にそっくりであった。
日本語と韓国語発音は非常に似通っているのでなお更である。北朝鮮の国民が騙されないことを心から望むものだが所詮ムリな話だろう‥。
父の出征中に
福井厚子
(当時:国民学校4年生)
私は当時国民学校4年生でした。開戦当日のことは記憶も大分薄れましたが当時の周辺の様子などを思い出しながら書いてみます。
亡父は開戦前の昭和16年夏に私を頭に幼子3人と亡母を残し出征しました。平服、頭はそのまま丸坊主不可、隣近所の挨拶もなし、風呂敷1つで見送りもない淋しい出征でした。すべて軍の命令で秘密裏の開戦準備です。
昭和12年の日中戦争にも応召しましたが、祝い酒、祝応召の幟、道路整理のお巡りさんと、まるでお祭り騒ぎで母の心中はいかばかりであったろうと思います。
間もなく北満のハルピンより軍事郵便が届くようになりました。筆まめの父からの便りが暫く途絶え心配していたら12月8日の大本営発表です。同時に真珠湾攻撃の大勝利の発表で鬼畜米英、一億一心の言葉が巷に溢れていました。子供心にも戦争に向かって押せ押せの時代で世の中の殆ど人々は気持ちが高揚していたと思います。子供心にも「欲しがりません勝つまでは」と言うような気持ちでした。暫くして南方派遣からの便りが届くようになり後に当時の昭南島今のシンガポールと分かりました。開戦と同時にマレー半島に上陸して南下、かなりの激戦地だったと思います。
当時は出征兵士の家庭は珍しくなく銃後の守りと誇りにし又学校でも父に恥じないようにとすぐに言われました。表向きとは違い父の居ない家庭は淋しい限り父は遠く離れた家族に思いを馳せていたと思います。
12月8日朝、横須賀軍港に帰港
菊池金雄
(海軍徴用船・次席通信士)
当事私は海軍徴用船「恵昭丸」(大同海運の貨物船、5800総トン)の次席通信士として乗り組んでいた。この船の任務は南洋群島の島々に散在する海軍航空隊の基地に、ドラム缶入り航空ガソリンの輸送だった。
現地に着いたら、各島々が不沈空母的に飛行場が設営され、まるでトンボが群れるように海軍機が離着陸し、戦争がはじまったような錯覚にとらわれた。
各小島には大型船の荷役桟橋もなく、はしけでの陸揚げ作業に長時日を要し、約一ヶ月後に横須賀向け帰路につき、12月8日朝東京湾口にさしかかった。そして開戦のラジオ放送があり、横須賀に入港したら軍人たちは殺気だっていた。
同船は任務がら、遠からず開戦予想はしていたが、まさかこの日とは意外だった。実は前夜(7日)東京湾の入り口で触雷した日本の貨物船から国際遭難電波である500キロサイクルでSOSが発信された。まさか翌日開戦するとは部外者は知るはずもなく。船内でも「いったい日本海軍どうなってるの?」と不審感をかもしたのは当然であろう。
ところが、くだんのSOSは一回発信されただけで尻切れとんぼになった。通常なら最寄り陸上海岸局や、近在の各航行船舶から救助のための通信が殺到するのであるが、そんな気配もなく、全く不可解なSOSであった。
後日、本件を検証するに、翌日の開戦に間に合うように海軍が東京湾口に防潜機雷柵を敷設中に前記貨物船が触雷したため、海軍側があわてて各方面に無線封鎖を厳命したものと推察される。例えば、銚子海岸局には海軍から情報将校が駐在し,この種機密情報は即時封印されたものと思われ、同局OBに本件感知の有無を尋ねたが、耳にしたことなしとのことであった。若しこのSOSをキャッチしたOBが居られるなら是非お知らせくださるようお願いします。
「硝煙の海」
http://www.geocities.jp/kaneojp/
ほとんど覚えていなかった
和田喜太郎
(当時:国民学校5年生)
たしか国民学校に呼称が変わって5年生でしたが、1941年12月8日のことはほとんど覚えていません。ただ、級長の西岡君が「やったやった」「今朝お父さんと話したんだ」などと、一人ではしやいでいたことだけは覚えています。
アタマのいい級長の開口一番のせいか、みんなは白けていました。校長や担任が朝礼などで何か言った筈ですが、これも覚えていません。だいたいが私ら、みんなアホでしたから、親と天下国家の大事について話すこともなく、級友や近所の子ども仲間とも、日米開戦を期待する論議など全くしなかったのでないかと思います。
ラジオは金持ちの家しかありませんでした。新聞くらいはどの家でもとっていましたが、私ら子どもがそれほど読んでいたとは思えません。
西岡君はどこか都会からの転校生で、父親は実業学校の教師でこの町の学校に赴任したわけです。西岡君は男前で、しゃべる言葉も標準語で持ち物だって私らのような安もんと違っていました。6年を卒業すると、彼のようにエエトコのぼんぼんで頭のいいもんは旧制の中学に進学しましたので、その後の消息は知りません。
年齢や思考力の問題もありますが、「大東亜戦争」開戦当時はまだのんびりしていました。しかしそれからが、物不足、召集や徴用、勤労動員など戦時色が次第に強くなり、戦争のなかにいることを実感するようになりました。
でも古参兵とかで無事に帰還しました。60年余前のことですが涙が出そうです。