九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

投稿HP「私の十二月八日」から         ネット虫

2010年11月23日 21時59分11秒 | Weblog
★日米が開戦してもうすぐ六十九年になる。歴史の風化というが当時のことを記憶している人は七十代の後半老人たち達である。
 此の事を予測して忘れ去られる前に記録しようとしたのが、このHP「私の十二月八日を立ち上げた方である。彼はこの紙面を公開し「私の十二月八日」に記録するよう働きかけた。
 それに応えてかなりの数の方々が手記を寄せている。
 この手記をプログで紹介しようと思い立った。是非お読みいただきたい。
                        ネット虫

「私の十二月八日」からは、http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19411208.htm         
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 緊張で身震い
                          塚田 茂
                           (当時:中学校2年生)

開戦の日、私は大阪市立東商業学校の2年生でした。学校へ行くと、すぐ校庭に全校生徒は集められ、校長からわが国がアメリカ・イギリス軍と戦争状態になった話がありました。今でも鮮明に思い出します。 私は緊張で身震いしました。

結局、戦争に敗れて、我々は大変な困難な時代を過した訳ですが、軍閥、(特に陸軍)が権力を振り回していたことを思えば、戦後、日本人が自由を得てよかったと思います。

同時に、東南アジアの諸国が、英仏蘭の植民地から解放されたのを、何時の日か後世の歴史が語ってくれることでしょう。

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 母はご飯がのどを通らなかった

                             宮下春子
                                (当時:5歳)

 十二月八日は小学四年生の姉の懇談会があり、姉が通っている小学校に行きました。午前は授業参観、午後は個人懇談会がありました。午前の参観が終わり畳敷きの裁縫室でお弁当を食べていました。

 そこに先生が入ってきて何か話したのですが、話の内容が日米の開戦であった事は勿論分かりませんでした。

 ずっと後になって母からその時の思い出話を聞きました。
「叔父さん(母の弟、当時27歳)が戦争に行くんじゃないかと思うと、ご飯がのどを通らなかった」

 母子家庭でラジオがなく母はお昼に先生の話を聞くまで開戦を知らなかったのでしょう。  

 興奮した調子の放送

                         指方英佑
                               (当時:国民学校2年生)

国民学校(小学校)2年生の冬、すなわち昭和16年(1941年)12月8日にあの忌まわしい、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争に突入した。このときからの数年間は正にこの国の暗黒の時代であった。

この日の朝のことはいまだに鮮明に覚えている。確か早朝にラジオで開戦の放送が行われた。とても寒い晴れた日であった。ラジオは「今朝?わが軍は太平洋上にて米国と戦闘状態に入れり、戦果は○○‥」と非常に高揚したアナウンスの声を何度となく繰り返し流していた。

なぜか何時は職業柄(出版物編集者)早起きはしたことがない親父が飛び起き、縁側のガラス戸や座敷の障子を全て開け放したのだ。寒気がどっと流れ込んできた。寒いのでフトンにもぐりこんでいた私は「一体何事だ!」と思ったが、たたき起こされてしまったのを覚えている。

ラジオ放送は興奮した調子で同じことを繰り返していたと思う。なんだか判らないが、ただならぬものを感じ、子供心にも厳粛な気分になった。インテリの端くれだった親父が何故こんな行動を取ったのか分からないがその時の気持ちを率直に表したかったのだろう。

この頃から後年、ウソの代名詞になった「大本営発表」がラジオや新聞で軍部の戦果の発表として行われ、我々はそのでたらめな内容に惑わされることになるのだが、この時のアナウンスの調子や内容は、今北朝鮮のテレビなどでキャスターが勿体つけてオーバーなアクションでしゃべっている調子にそっくりであった。

日本語と韓国語発音は非常に似通っているのでなお更である。北朝鮮の国民が騙されないことを心から望むものだが所詮ムリな話だろう‥。



 父の出征中に

                          福井厚子
                                (当時:国民学校4年生)

私は当時国民学校4年生でした。開戦当日のことは記憶も大分薄れましたが当時の周辺の様子などを思い出しながら書いてみます。

亡父は開戦前の昭和16年夏に私を頭に幼子3人と亡母を残し出征しました。平服、頭はそのまま丸坊主不可、隣近所の挨拶もなし、風呂敷1つで見送りもない淋しい出征でした。すべて軍の命令で秘密裏の開戦準備です。

昭和12年の日中戦争にも応召しましたが、祝い酒、祝応召の幟、道路整理のお巡りさんと、まるでお祭り騒ぎで母の心中はいかばかりであったろうと思います。

間もなく北満のハルピンより軍事郵便が届くようになりました。筆まめの父からの便りが暫く途絶え心配していたら12月8日の大本営発表です。同時に真珠湾攻撃の大勝利の発表で鬼畜米英、一億一心の言葉が巷に溢れていました。子供心にも戦争に向かって押せ押せの時代で世の中の殆ど人々は気持ちが高揚していたと思います。子供心にも「欲しがりません勝つまでは」と言うような気持ちでした。暫くして南方派遣からの便りが届くようになり後に当時の昭南島今のシンガポールと分かりました。開戦と同時にマレー半島に上陸して南下、かなりの激戦地だったと思います。

当時は出征兵士の家庭は珍しくなく銃後の守りと誇りにし又学校でも父に恥じないようにとすぐに言われました。表向きとは違い父の居ない家庭は淋しい限り父は遠く離れた家族に思いを馳せていたと思います。


12月8日朝、横須賀軍港に帰港

                         菊池金雄
                        (海軍徴用船・次席通信士)
         
 当事私は海軍徴用船「恵昭丸」(大同海運の貨物船、5800総トン)の次席通信士として乗り組んでいた。この船の任務は南洋群島の島々に散在する海軍航空隊の基地に、ドラム缶入り航空ガソリンの輸送だった。

 現地に着いたら、各島々が不沈空母的に飛行場が設営され、まるでトンボが群れるように海軍機が離着陸し、戦争がはじまったような錯覚にとらわれた。

 各小島には大型船の荷役桟橋もなく、はしけでの陸揚げ作業に長時日を要し、約一ヶ月後に横須賀向け帰路につき、12月8日朝東京湾口にさしかかった。そして開戦のラジオ放送があり、横須賀に入港したら軍人たちは殺気だっていた。

 同船は任務がら、遠からず開戦予想はしていたが、まさかこの日とは意外だった。実は前夜(7日)東京湾の入り口で触雷した日本の貨物船から国際遭難電波である500キロサイクルでSOSが発信された。まさか翌日開戦するとは部外者は知るはずもなく。船内でも「いったい日本海軍どうなってるの?」と不審感をかもしたのは当然であろう。

 ところが、くだんのSOSは一回発信されただけで尻切れとんぼになった。通常なら最寄り陸上海岸局や、近在の各航行船舶から救助のための通信が殺到するのであるが、そんな気配もなく、全く不可解なSOSであった。

 後日、本件を検証するに、翌日の開戦に間に合うように海軍が東京湾口に防潜機雷柵を敷設中に前記貨物船が触雷したため、海軍側があわてて各方面に無線封鎖を厳命したものと推察される。例えば、銚子海岸局には海軍から情報将校が駐在し,この種機密情報は即時封印されたものと思われ、同局OBに本件感知の有無を尋ねたが、耳にしたことなしとのことであった。若しこのSOSをキャッチしたOBが居られるなら是非お知らせくださるようお願いします。

「硝煙の海」
http://www.geocities.jp/kaneojp/



ほとんど覚えていなかった

                        和田喜太郎
                          (当時:国民学校5年生)

 たしか国民学校に呼称が変わって5年生でしたが、1941年12月8日のことはほとんど覚えていません。ただ、級長の西岡君が「やったやった」「今朝お父さんと話したんだ」などと、一人ではしやいでいたことだけは覚えています。

 アタマのいい級長の開口一番のせいか、みんなは白けていました。校長や担任が朝礼などで何か言った筈ですが、これも覚えていません。だいたいが私ら、みんなアホでしたから、親と天下国家の大事について話すこともなく、級友や近所の子ども仲間とも、日米開戦を期待する論議など全くしなかったのでないかと思います。

 ラジオは金持ちの家しかありませんでした。新聞くらいはどの家でもとっていましたが、私ら子どもがそれほど読んでいたとは思えません。

 西岡君はどこか都会からの転校生で、父親は実業学校の教師でこの町の学校に赴任したわけです。西岡君は男前で、しゃべる言葉も標準語で持ち物だって私らのような安もんと違っていました。6年を卒業すると、彼のようにエエトコのぼんぼんで頭のいいもんは旧制の中学に進学しましたので、その後の消息は知りません。

 年齢や思考力の問題もありますが、「大東亜戦争」開戦当時はまだのんびりしていました。しかしそれからが、物不足、召集や徴用、勤労動員など戦時色が次第に強くなり、戦争のなかにいることを実感するようになりました。



でも古参兵とかで無事に帰還しました。60年余前のことですが涙が出そうです。

                
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[県知事選]この静けさは何だろう 沖縄タイムス社説から

2010年11月23日 16時16分15秒 | Weblog
★本土の我われの中には「えっ 沖縄知事選なの?」と驚く人も多い。地元紙によれば当の沖縄でも選挙戦の盛り上がりがないという。沖縄タイムスの危惧を紹介したい。  ネット虫


県知事選挙が盛り上がらない。沖縄の針路を左右する極めて重要な選挙であるにもかかわらず、選挙の意義に見合うような熱気が、感じられない。一体、どういうことなのだろうか。

 県知事選は復帰後、10回行われているが、11回目の今回は、過去のどの選挙と比べても、特異さが際立つ。

 2人の有力候補が米軍普天間飛行場の移設問題で、「県外」「国外」への移設を主張し、争点がぼやけてしまったことが、この選挙の最大の特徴である。

 辺野古移設の姿勢を変えていない民主党本部は、どの候補も推していない。沖縄の県知事選で政権与党が自主投票を決めるのは初めてだ。自民・公明推薦の候補が、自民党本部に推薦の申請をしないのも例がない。

 普天間問題がもたらした複雑な「ねじれ」が、有権者を戸惑わせ、選挙運動の盛り上がりにブレーキをかけているのは明らかだ。

 菅直人首相はオバマ米大統領との首脳会談で、「5月の日米合意をベースに沖縄県知事選後に最大の努力をする」と語った。知事選は現職の仲井真弘多氏と、前宜野湾市長の伊波洋一氏による事実上の一騎打ちとなっているが、誰が当選しても、選挙後の政府との交渉は難しいものになるだろう。

 「どうせ動かないのだから」と選挙を棄権する人が増え、投票率が下がるようなことがあってはならない。

 現実を変えることができるのは、選挙によって示される有権者の民意である。

 過去10回の知事選で、例外的に投票率が下がったケースが2回ある。

 革新陣営が分裂し、稲嶺恵一、吉元政矩、新垣繁信氏らの争いとなった2002年の知事選(投票率57・22%)と、大田昌秀氏と翁長助裕氏が争った1994年の知事選(投票率62・54%)である。

 両選挙に共通するのは、大差がついたことだ。選挙に対する有権者の関心が薄れ、投票率が低下した結果、大差がついてしまったのである。

 今回の選挙はそのような状況にはない。そこまで投票率が下がるとは考えにくい。

 ただし、普天間問題の争点がぼやけ、中央と沖縄に「ねじれ」が生じたことは、いわゆる浮動層の知事選への関心を低下させる懸念がある。

 各陣営は他候補との違いを有権者にアピールし支持を訴えているが、現時点では、政策の違いが有権者に十分に浸透しているとは言い難い。

 盛り上がりに欠ける現在の状況を打開するためには、一にも二にも運動量を増やすことである。運動を拡大し、政策をめぐる論戦を深めていくことによって有権者の関心を高めていくことが必要だ。

 日米安保への評価、経済政策の手法、カジノ導入をめぐる姿勢、県立病院の独立行政法人化など、政策の違いは次第に明らかになりつつある。対立軸を鮮明にし、有権者に分かりやすく政策を示してもらいたい。

 投票率を高めることが、政府に対する沖縄の交渉力を強くする。

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「自虐史観」「洗脳」の危うさ  文科系

2010年11月23日 09時05分30秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 僕の「右翼のデマに」に反論を書いてきたある人が例によって、こんな言葉を使った。「洗脳」と「自虐(史観)」。本日はこの言葉について一言。

「洗脳」と「自虐」と、あまりに独善的過ぎる、明白な差別用語だと言いたい。

「洗脳」って「狂気を植え付けられた普通じゃない頭」のことであって、「自虐」って「自分を虐める不自然な人間」。いずれにも「正常な人間」を前提として(「それは自分らだ」として)、それと違うからお前らは異常だと語っていることになる。独善的に人を差別して、しかも憎んで当然だとさえ語っているような、そんな雰囲気で発せられるのが普通の言葉だ。

 さて、こういう雰囲気は、ヒットラーの「ユダヤ人憎し」とどこが違う? ただし、この場合は人種を裁いているのではなく、思想、言論を裁いているのだが。普通じゃない、人として不自然な思想? 他人が他人の思想をこんなふうに裁いてはいけないというのは、近代世界の常識であろう。つまり、こういう言葉を使う人々は、そんな常識さえ持ち合わせていないのである。
 人は人の行為によってのみ裁判で罪になるはずだが、ある思想を持っていることも罪になるのか? ある言論をすることが罪になるのか? この点で日本人は非常に「危ういもの」をいっぱい持っていると言いたい。
 「昭和天皇に最大の戦争責任があった」などと語ると、もうすぐにカッカと来る人がいる。
 「天皇制は廃止すべきだ」などと言っても、同じだろう。
 「太平洋戦争はほとんど日本が悪かったのである」と言うとやはり、我を忘れてしまう。
 「9条を守れ」には、「アホか!」と平気で語るし。

 こんな用語遣いは、一刻も早く止めることだ。人としての品格に欠けると明言しても良いはずだと考えるが、どうだろうか。
 
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