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まだ、「自衛戦争だった」と?  文科系

2011年03月04日 07時29分15秒 | Weblog
 ざくろさんという方が表記内容のようなコメントを書かれた。このブログの性格上、この論議は発足以来続いてきたものだ。最近の拙稿でも、去年11月15日から11月24日の「東条英機首相への熱狂ぶりと、その源泉」までを入れると都合7回にわたって、「太平洋戦争、右翼のデマに」を書いてきた。その4、5回を再掲しておきたい。最新の学問的成果も入った、ある著作の紹介である。岩波文庫シリーズ日本近現代史全10巻のうちの第6巻「アジア・太平洋戦争」(吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授著)の。

【 太平洋戦争、右翼のデマに(4)  文科系
2010年11月18日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
4 太平洋戦争の三つ目の性格 「アジアのため」?
 右翼は、大東亜戦争という言葉が好きです。「大東亜共栄圏」とも語るように、白人の横暴からアジアを守る闘いだったと言いたいわけです。著者はこういう主張をいくつかの点から批判していきます。
 最初は、この戦争に際してマスコミなどを「白人対アジア人とは、語るな」と統制していたことをあげています。独伊がお仲間だったからです。また、フランスに対独協力派ヴィシー政権が誕生すると、40年8月にはこんな協定を結んでいます。
『フランスが極東における日本の優越的地位を認め仏印への日本軍の進駐を容認する、それと引き換えに、日本は仏印全土に対するフランスの主権を尊重する』
 「白人の仏印全土への主権」を、日本はいつまで認める積もりだったのでしょう? 作者はこんな事を語って見せます。
『このことは、インドシナ地域の民族運動の側から見れば、日本とフランスは共犯関係にあることを意味する』
 
 それどころか、そもそも開戦理由などは後付けであったと、その経過を著者は明らかにしていきます。
・『41年11月2日、昭和天皇は東条首相に、戦争の「大義名分を如何に考うるや」と下問しているが、東条の奉答は、「目下研究中でありまして何れ奏上致します」というものだった』
・宣戦の詔勅では、「自存自衛の為」と、述べられています。
・12月8日開戦後、7時30分のラジオでは、情報局次長によって、こういう放送がされたということです。
『アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い返すのであります』
・このラジオ放送には、こんなおまけが付いています。この概容を掲載した翌日の朝日新聞では、「白人」という言葉はどこにも見当たりません。かわりにあるのが、「アングロサクソンの利己的支配」。すり替わった理由は、上に述べた通りです。
・12月10日に「大東亜戦争」という呼称を、大本営政府連絡会議で決定。次いで12日に「大東亜戦争」の意味を説明して「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」と宣言されました。この「新秩序建設」は、後で述べる11月5日の御前会議決定にも出てきます。

 日本利権と軍事優先ですべてが決定され、理由は後からくっつけたということは、明らかでしょう。このことは、41年10月18日に近衛文麿内閣が総辞職して東条英機内閣が成立したその事情にも、示されています。近衛内閣は、41年4月から始まった日米交渉において、アメリカの最大要求であった『日本軍の中国からの撤兵』を『何らかの形で撤兵を実現することによって交渉の決裂を回避しようとし』ていました。これが軍部に拒否されて近衛内閣は総辞職し、以降2ヶ月弱で日英・日米戦争に勇往邁進していったわけです。関連して、開戦決定御前会議は従来言われていたような12月1日ではなく、11月5日だったと著者は述べています。なお、この5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者は解明していました。】



【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編)  文科系
2010年11月20日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など 
しゃにむに、密かに、不意打ち開戦へ
 前回のこのまとめ部分は、日米の戦争責任論議における最重要点だから、説明が要りますね。
「なお、この5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者は解明していました」

 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。この不自然さを、著者の吉田氏はこう解明していきます。

 そもそも1国務長官の覚書とは、1国の最後通牒などと言える物では、到底ない。よって、10月に退陣した近衛内閣が進めていたように、アメリカとの条件交渉の余地はまだまだ充分過ぎるほどに存在していたのである。対して、入れ替わったばかりの東条内閣が、ハル・ノートを最後通牒と断定し即戦争を決めたように語られてきたわけだが、これは完全に日本のあるタクラミに基づいている。その狙いは、
・生産力で10倍を遙かに超える差がある強大なアメリカの戦争準備が整わぬうちに、戦争を始めたかった。日中戦争進展にともなって臨時に大増強した太平洋周辺戦力はアメリカを上回っていたからだ。
・それも、完全に油断させておいて、不意打ちで開戦したかった。日本側は、十二分に準備を整えておいた上で。
・東条内閣は、発足20日も経たぬ11月5日の御前会議でもう12月初頭の開戦を決めていて、戦争にまっしぐらだったのである。その日に決まった「帝国国策遂行要領」をその証拠として、著者はこう書いている。
『「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際、英米欄戦争を決意し左記措置を採る」とした上で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。引き続き外交交渉を継続するとされていたものの、実際には、その性格は開戦決意をカムフラージュするための「欺騙外交」としての側面をつよめてゆくことになる』
 なお、前にも述べたように、この11月5日の御前会議は、東京裁判当初までアメリカには隠されていたものである。以上のように軍人内閣のやり方は、「出来るだけ速く、密かに、しゃにむに戦争へ」「相手とは交渉を続けるふりをして油断させつつ」「それも、相手に知られない不意打ちで」というものであって、このことはその4にまとめた以下の事実によっても証明されている。
【『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』】
 

 「アジア・太平洋戦争」の開戦原因に関わる経過を、最後にもう一度まとめておく。
1 「日本が、中国侵略から南部仏印侵略へという動きを強行した」
「このイギリス権益の侵害に対してなされた、アメリカによるたびたびの抗議を無視した」
「こういう日本の行為は、ドイツの英本土上陸作戦に苦闘中のイギリスのどさくさにつけ込んだものでもあった」
この間の上記の経過は、本書では結局、こうまとめられている。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』

2 そのアメリカに対しては、交渉するふりをして、その太平洋周辺戦力が不備のうちに、不意打ち開戦の準備を進めていった。
その直前の様相は、こういうことであった。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』】
コメント (32)
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随筆紹介 『亡き人から』   文科系

2011年03月04日 05時30分51秒 | 文芸作品
 今回は、同人誌月例冊子の2月号から昨日と同じ、A・Mさんの作品です。昨日の作品に、まもるさんから「正に適切、ぴったり!」と思われる共感の声が寄せられていましたので、そのやり取りの延長のような暖かい気持ちで紹介します。


【  亡き人から   
 
小菊が香る晩秋だった。やさしい女文字の葉書が届いた。差出人は小学校の恩師の奥様からで、喪中の文面。〈先生がとうとう……〉 今年は三人もの大切な人が亡くなった。
──死んだ者は生きている者にも大きな力を持ち得るものだが、生きている者は死んだ者に対してあまりにも無力なのを残念に思う──。これは、最近読んだ武者小路実篤著『愛と死』の一文である。読書会の課題本にしては、いささか古い文体と思ったのだが、内容は少しも古びていない。読み終えたばかりの一文が胸に応える。
 特に今回の訃報は、影響を大きく受けた先生だったので、残念でならない。昨年の春だったろうか。クラス会を開きたいとの級友の声で、私が先生宅に電話した。すると奥様から病状経過の話のあと、先生と替わって少し話せた。まだ体調が悪いので先にとのことで、話すのもやっと。それが最後の会話となった。
 私が小学五、六年生のときの担任で、十四歳だけ年上の教師だった。若く教育熱心で、少し型破り。趣味の茶道で奥様と結婚し、父親になるとパチンコの景品でミルクをもらって帰る。「成人したら君たちにも必勝法を教えよう」などの話もあった。学校図書の普及や生徒全員の誕生日ごとに自宅に招いてのすし作りの体験。宿題の代わりに自習帳を提出させて、コメントを入れ返すなど、発想が豊かだった。
 とにかく生徒に人気のある先生で、形式より中身を重視。年賀状も毎年目標を書けということで、卒業後五十年間出し続けたが、先生自身も目標を記して返事を下さった。他にも数々の想い出があり、先生と生徒というよりも一人の人間として向き合ってもらえた気がする。
 今に至っても影響を受け、たくさんのものをいただいたのに、返すべく何もない。長い間の闘病生活を送られ、たびたび奥様と話をする機会があったので、せめて最後にお礼の手紙を書き送った。】
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