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福島原発事故でどんな影響があるのか?   らくせき

2011年03月25日 19時20分28秒 | Weblog
大西五郎さんから、「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会が
福島原発震災」をどう見るか――― 私たちの見解、というメールが送られてきました。
ちょっと長くて難しいのですが、一番、関心の高い項目を転載します。

                  


 福島第一原発では、2011 年3 月11 日の東北地方太平洋沖地震発生から
10 日以上を過ぎた今も、原子炉炉心の冷却が進まず、
この重大事故がどのように収束するのか予断を許さない深刻な事態が続いています。

1.福島原発では何が起こり、今どういう状態にあるのか(略)

2.放出され続けている放射能の危険性について

福島第一原発からの放射能(放射線物質)の放出が続いている。
原発敷地周辺で高濃度の汚染が観測されるとともに、
東日本の広い範囲にわたって原発事故に起因する放射能が観測された。
福島県や関東各県では農産物(牛乳やホウレン草)で
食品衛生法の暫定基準値を超える汚染が報告された(3 月21 日)。
また、原発サイト周辺の海水の汚染も確認され、海産物への影響も心配である。
放射能汚染のレベルをどのように考えるべきなのか、避難の行動をとるべきなのかどうか、
また農産物を食べてよいのかどうか。それらの問題について私たちの考えを述べたい。

放射性物質の放出量について東京電力は何らの発表を行っておらず、
そのことが放射能汚染の全容を把握することを困難にしている。
また観測モニタの測定値についての報告も不十分である。
各都県の測定値と、それにもとづいた拡散シミュレーションも発表されていない。
このような状況が、汚染についての適確な判断を下すことを困難にしている。

私たちが汚染状況を判断し、行動するに当たって、外部被曝と内部被曝とを
明確に区別して考察することも不可欠である。
原発サイト内あるいは上空での放射線量には、
露出した燃料棒からの直接的な放射線量の寄与も大きいと考えられるが、
原発近隣を含め、そこから離れた地域での放射線被曝は、
大気中に放出された放射性物質からのものである。
これらは外部から放射線をあびせるだけでなく、体内に取り込まれて内部被曝を起こす。
体内に取り込まれた粒子から放出されるアルファ線やベータ線は飛程が短く
(アルファ線では40μm程度)その粒子からのごく近くの組織を集中的に破壊するので、
がん発生率が大きくなる。
そのような効果を考慮すると、被爆線量規制値はICRP報告より厳しく評価すべきだ
という見解も出されている。

・原発サイトにおける被曝労働
 原発サイトでは、敷地内のモニタや上空で100mSv/h を超す高い放射線量が観測され、作業も度々中断されている。
原子炉を安定化させ危機を回避するための作業は、緊急に行わなければならないが、
作業員(東京電力と下請け企業の社員、消防隊員、自衛隊員等)の
被曝労働は極力避けねばならない。
厚生労働省は被曝線量限度値(法定限度)を100mSv から250mSv に引き上げた。
これが、作業における被曝線量を過小評価することや、
被爆労働の強制につながるものであってはならない。

・周辺30km圏での退避の必要性
 原子力安全委員会の定めた防災指針の規準
(予測線量50mSv 以上で退避、10mSv 以上で屋内退避)を適用するに当って、
どのような予測にもとづいて現在の退避範囲
(福島第一原発から20km 圏内は圏外への退避、30km圏内は屋内退避)が
設定されたのかが不明確である。
事態を過小評価している危険が大きい。
特に、30km圏内の屋内退避を強いられている方々には、
救援物資が滞る(運送業者が立入りを望まない)という事態が生じており、
一刻もはやく圏外退避を決めるべきことを政府に求める。

・周辺80km圏内からの退避について
 アメリカ政府は、福島第一原発周辺80km(50 マイル)圏内からの自国民の退避を決め、
多くの国々も同様の措置をとっている。
この判断は一定の根拠にもとづいておこなわれたものであると考えられるので、
その地域に居住する日本人にも何らかの危険が生じうると考えるべきではないか。
実際に圏外に退避できるかどうかは、生活環境や、周りの人びととのつながり、
退避先の有無など条件はさまざまであろう。
しかしながら、妊婦(胎児)・幼児・青少年など被曝の影響が大きく現れる人びとは、
優先して退避させるべきである。

・首都圏など200km圏内での対応
 首都圏など200km圏内でも、1μSv/hに達する放射線量が観測されている。
この放射線量を1 年間(8760時間)浴び続けると8.76mSv となり、
公衆被曝の法定限度1mSv/年を超える。
日本人が浴びるとされる自然放射量1.2mSv/年と同程度であるとされるが、
内部被曝が加わることを考えると、この線量を被曝し続けて安全だとは言えない。
問題は、事態がどのような期間ののち収束に向かうのかである。
原発サイトで何が起こるか、放射能の放出量がどう変化するか、
注意深く監視していく必要がある。

・農作物などへの影響
 福島県内の牛乳、茨城県など関東各県の野菜(ホウレン草など)に
食品衛生法の暫定基準を超える放射能汚染が検出され始めた。
食の安全が脅かされつつある。
また、原子力災害対策特別措置法の規定にもとづいて出荷停止措置が発動され、
生産農家は農産物の廃棄を余儀なくされている。
このような事態を招いた政府や東京電力などには、しかるべき補償を行う責任がある。
この状態がいつまで続くのか、場合によっては東日本各地の農業生産が
大打撃を受けようとしている。
このような被害を最小限に抑えるためにも、これ以上の放射能放出の防止と、
原子炉および燃料プールの冷却機能回復が急務である。

3.柏崎刈羽原発被災の経験は生かされなかった(略)

4.柏崎刈羽原発の今後についての要求(略)

詳細は、柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会のHPをご覧ください。



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朝鮮日報より    らくせき

2011年03月25日 19時10分53秒 | Weblog
放射能漏れの深刻な状況が続く福島第一原子力発電所の事故現場では、
自衛隊や消防隊員のほか、残骸の除去作業などを行う数百人の作業員がいる。
米ウォールストリート・ジャーナルは24日付に
「原子炉戦闘の裏側、作業員部隊」と題する記事を掲載し、
現場作業員らの待遇について紹介した。

 同紙によると、東京電力をはじめ事故現場に作業員を派遣している企業は、
作業員らに対して従来の傷害保険、疾病保険以外に特別な手当は支給していないという。
東京電力の下請け作業を手掛ける東海塗装で原子炉の特殊コーティング作業を行っている
タダ・ケンジさん(29)は「怖い」と正直に打ち明けながらも「誰かがやらないと」と語った。
放射線にさらされながら作業を行うタダさんの給与は月20万円ほどで、
これは日本の平均給与(29万1000円)に比べかなり安い。
作業員を派遣している東海塗装の専務は「国が危機的状況にある中、
この任務を金のためにやっている人などいない」と語る。

 事故処理に当たっている作業員は、タダさんのように工業高校出身者が多く、
決して高学歴とは言えない。
彼らに特別な技術があるとすれば、放射能にさらされる危険な環境での作業に慣れているという点だろう。


きのうの事故で、被爆したのは協力会社の人でしたよね。

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小説 「母の『音楽』」  文科系

2011年03月25日 14時04分43秒 | 文芸作品
 今回は、自分自身の小説を送ります。ちょっと長いので、3回に分けて。

 僕は若いころからずっと文芸文など書いたことがなくって、老後への準備の1つとして現役時代の15年ほど前から同人誌活動なるものに関わってきました。今は売れない昔のプロが主宰する名も無い同人誌です。その間、僕の作品の半数は、8年前に亡くなった母がモデルです。この作品の中の文章を借りれば、こんな意図を持ってのことでした。文中にもあるように、これは7年前の随筆の文章を、この小説に使ったものなのですが。
『僕は中篇に近い小説九つを年一作ずつ同人誌に書いてきた。うち最初の作品を含めて四つは、母が主人公だ。もう十年近く母を、老いというものを、見つめ、描いてきたことになる。発病前は老いの観察記録のように、その後は病室の中やベッドの上も、時には四肢さえもさらけ出して。普通ならマナー違反と言われようが、親が子に教える最後のことを受け取ってきたつもりだ。そして、僕がこんなふうに描くのは、母の本望だとも信じている。』



母の『音楽』

 ギターレッスンに苦心惨憺のある日、ふっと気付いた。
〈左手指がここで、他の箇所に比べて、どういうか、なんか、ばたばたしている。この小指が上がりすぎ、時に伸び切るようになるのは、どうしたことか?この癖から全体が遅くなるらしい。反復練習にはもう慣れてるが、これを直さんとどうしようもないぞ〉
 二月から七ヶ月も、毎日のように弾き続けている曲が、どうしてもできあがっていかない。南米のギター弾き・バリオスの「大聖堂」、その第三楽章。ここの速さが、ことのほか骨なのである。「もう限界なのかなー」、定年後に先生なる者につき始めて七年足らずの老いの身には、そんなことも頭をよぎる。六連十六分音符が三頁連なるこの楽章をせめて六十の速さにしたいのだけれど、四十五が限界。あれこれ観察し、試行錯誤しているうちに、やっと分かってきたことだった。
 ある一カ所が特に、何度弾いても上手くいかない。六連十六分音符がたった二つ並んだだけの一小節なのに。周囲と比べてちっとも難しそうにも見えず、なんの変哲もない箇所だ。そんな所を、何日かは意を決して五十回繰り返してみたりして、もう千回以上は優にやったろうというようなある日に、やっと気付いたのだ。
 さて、恥ずかしいことだがここまで来て、習い初めのころ先生に言われたことを思い出した。
「左手指は、一本ずつが他から分離して動くようにならなければいけません」
 左手小指が薬指に連動するらしい。薬指を指板から上げるときに特に、小指がぴくっと大きく跳ね上がる。よって、薬指の後に小指で押さえねばならない時などに、どうしても演奏が一瞬遅れる。この癖が原因で指のすべてが固くなっている。今までの曲ではなんとかこれをごまかせたが、今回の速すぎる箇所ではとうとうぼろが出たと、そういうことだろう。
 だけどこの曲、七ヶ月でこんな出来。人前で弾ける程度に完成するのだろうか。舞台で弾くことはもうないのだが、その程度にはしたい。去年からホームコンサートのようなもの以外は出ないと決めて、それまでやっていた舞台を全てパスしてきた。それでもこれだけ熱中できるのだ。それは、九十三歳で死んだ母の身近にいて、種々多くのことを教えられたからだと、いま振り返ることができる。父の最晩年を夫婦二組で同居し、次に父が亡くなった後は三人で過ごし、母の脳内出血以降はその介護の五年間を通して。

 職業婦人の走りであった明治生まれの母は、退職後に三味線を再開して二十年近く続けたが、七十八歳できれいさっぱり、すべてを投げ出してしまった。それまで出ていた教室の発表会に出なくなっただけではない。同時に「キネヤなんとか」さんの教室そのものも止めてしまった。それどころか、それからは弾いているのを見たこともない。死後に彼女の日記を見て改めて知ったのだが、このあと一度でも、三味線を弾いたことさえないはずだ。 母はそのころ、同い年の父の心臓病につきあって、疲れ切っていた。七十三歳を最初に、八十二歳で亡くなるまで、脳梗塞、心筋梗塞を都合四回も起こした父なのだ。彼の晩年二年間は次男である僕らが同居したのだが、「同居が遅すぎた」と何度後悔したことだったか。

 同一敷地内に新築の家を廊下で繋げたという「同居」二ヶ月ほどの初夏のことだ。珍しく明るいうちに帰って二階ベランダの窓際から庭に目をやると、ブロック塀の一角に母が見える。「水をまいている」と思ったのだが、どうも違うようだ。両手で持っているのがバケツでも、ジョーロでもない。父が愛用していた高価な徳利ではないか。〈父さんに怒鳴られるよ!〉、一瞬そう思ったが、今の父にはもうそんな気力も関心もないとすぐに思い直した。そういう徳利からお猪口ならぬ地面に注いでいるのは、水なのか酒なのか。間もなくとことこと歩き出して、僕に近い南東の角に来た。そして、僕のお気に入りのガクアジサイの近くで、同じようなことをやっている。そして、夕食時。その日父は確か、入院していて家にいなかったはずだ。
「さっき、庭で何やってたの?」
そのころ何となく黙りがちな日々が多かった母だが、一瞬僕の目を見てからちょっと顔を伏せたあと、ことさらにさらりとした感じで、応えた。 
「うん。庭の四隅にお酒を上げてたの。まー御神酒ということ。ここの家を建てたとき、地鎮祭をしてなかったのを思い出してね」
「ふーん。かーさんが縁起かつぐなんて、珍しいね。何か悪いことでもあったの?」
「うん、ちょっとね」
 そう、僕らが同居するまでの母は悪いことづくめだった。父の看病や、病院がよい。三味線は一年ほど前に止めていたし、大好きな友人たちとの旅行などもしなくなっていた。昔風賢夫人は、こういうときには物見遊山などは控えるものらしい。そんなこんなの鬱屈からなのか、物忘れも酷くなっていた。家のヤカンや鍋などを焦がしてしまい、庭に捨てられたものがいくつかあったし、当時使用中でも、地金の色を表している物がほとんど無かった。
 さらに、僕らとの同居によってもまた、別の「悪いこと」が生まれていたようだ。
 僕の脳裏に死後も含めてだんだん形作られていった母の心境を簡単に言えば、こういうことになろうか。まず、病気の、気むずかしい父を一人で抱え、自らの八十の老いを向こうに回して歯を食いしばって暮らしてきた。次いで、僕らと同居してからの心境は、こう。壮年期にある僕らの「若さ」に打ちのめされ始めたらしい。なんせ、自慢のようなことは口にしなかったが、子どもの僕とも競争したいような人。「私のどこが八十に見えるね。言ってごらんなさいよ!」。なにか僕が注意したときにこんな返答さえ返したこともあった。そんな心境も含めてすべてが、今にして痛いほど分かるような気がするのである。思い出すと胸が痛いとは、こういうことだろう。

続く
コメント
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