新たな名なしさんが、また右流歴史論をここで振り回し始めた。「9条」の名を冠したここを始めてもう同じ論議を何度繰り返してきたことか。今回も、南京虐殺は2万人だなどと日中学者会議の日本学者側認定数字2万~20万人の最少数字をわざわざ上げられて、「南京の人口がこんなに少ないのに?!」といういつもの右流論理も臭わせつつ、例によって鬼の首でも取ったように。反論として先ず、以下の過去拙稿をあげておこう。
【「慰安婦」「南京」の大状況を見る 文科系 2015年02月17日 |
反米保守さんと今、この二つの問題が論議になっている。これらの論議でいつも思うある事を今日は書いてみたい。
「強制もなかったし、虐殺も通常の戦時ていどである」と右の方々が語る時、いつも或る事を忘れているような気がしていた、そのことを。慰安婦問題にしても南京虐殺にしても、それが起こった非常時の背景など、今の人には分かりにくい大状況のことである。裁判などでは事件の事実認定を徹底するが、同時に背景、動機なども同じくらい重要なものとなるはずだ。特に、植民地とか激戦時とかには、今の普通の感覚では分からないようなことが無数にあると思う。
さて、こういう大状況を慰安婦問題では14日のエントリーにこう書かせて頂いた。
『③次いで、僕が最も力説してきたのはこのことだ。朝鮮は1873年征韓論・西郷隆盛の出兵騒動を経て1875年江華島事件以来東学教徒鎮圧など数々の皇軍暴力を経て、1910年に植民地にされた。その後はまたさらに、35年間植民地だった。その間日本への反乱、反抗行為は絶えず、女囚房も含めた政治犯刑務所なども「大盛況」であった。こういう国の女性が「任意の自由意思で売春婦になった」と植民地にした側の人間が現在語っているのだが、あまりにも違和感がある。1929年の世界大恐慌以降は、日本でも「娘売ります」があったことを考えれば、朝鮮半島では同じ事がもっと多かっただろうと十分に推察できるからだ。つまり、植民地宗主国が広義にはそういう事態を多く作ってきたとも言えるのである。政治犯として家の主などが殺された例なども数知れずだったのだから、少なくとも広義の強制は絶対にあったと言いたい。
以上から、平時の「(保護者の意思も含めた)任意自由意思の売春婦」のように日本人が語るのは、道義的には全く許されないどころか、犯罪的行為とさえ思うものだ。ドイツが、占領したフランスに今ヘイトスピーチをやるのと同じ行為であるという事実を、少しは考えてみたらよい。』
南京虐殺にはこんな大状況があったとは、歴史家たちも指摘する所である。
『 上海大攻防戦は37年8月(13日)に始まり11月(9日)にほぼ一段落した。その直後12月から翌年まで続いたのが、南京虐殺である。上海攻防戦自身が、揚子江沿いのすぐ上流にある首都南京防衛の為とも言えて、二つは切り離せないということ。
こうしてここでは、南京の人口が急に増えた事が肝心だと言いたかったのが分からないのかな?』(拙コメントから、一部追加、修正)
つまり、3ヶ月続いた大激戦から、揚子江沿い上流の南京に向かって潰走して行く南京政府軍と、それを追って先陣争いの日本軍という構図が存在した。なお、この上海と揚子江流域にはドイツ式の装備・訓練による最精鋭部隊30万の中央軍が配備され、上海戦への延べ中国軍投入兵力は70万といわれて、第一次大戦最激戦であったベルダン要塞戦にも例えられる激しさと聞いてきた。
なお、南京政府軍15万は、12月12日夜から13日朝にかけて日本軍包囲網からの退却を図ったが、揚子江を渡れた将兵は極めて少なかったと言う。
こういう大状況下の日本兵の心境、捕虜への態度などを、華中方面従軍作家石川達三はこう描いていたという。
『南京は敵の首都である。兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗っとることは決定的な勝利を意味する』(岩波新書日本近現代史全10巻シリーズの第5巻、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授著「満州事変から日中戦争へ」から)
『不十分な補給のままの追撃戦による鬱積、中国兵への蔑視の感情が日本側にはあった。作家の石川達三(北支の従軍記者だった)は兵士の感情をよく観察していた。「殊に兵隊の感情を苛立たせる原因となったものは、支那兵が追いつめられると軍服をすてて庶民の中にまぎれ込むという常套手段」。(中略)また、兵士たちは捕虜の取り扱いに窮した。石川は率直に「こういう追撃戦ではどの部隊も捕虜の始末に困るのであった」と書いていた。この混乱の渦中に南京事件は起きた』(同上書)
なお、33年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」には、こういう一文があるという事実も付記しておきたい。わざわざ、兵にこう教えていたのである。
『「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『餓死した英霊たち』)。』(同上書)
コメント (13)】
【「慰安婦」「南京」の大状況を見る 文科系 2015年02月17日 |
反米保守さんと今、この二つの問題が論議になっている。これらの論議でいつも思うある事を今日は書いてみたい。
「強制もなかったし、虐殺も通常の戦時ていどである」と右の方々が語る時、いつも或る事を忘れているような気がしていた、そのことを。慰安婦問題にしても南京虐殺にしても、それが起こった非常時の背景など、今の人には分かりにくい大状況のことである。裁判などでは事件の事実認定を徹底するが、同時に背景、動機なども同じくらい重要なものとなるはずだ。特に、植民地とか激戦時とかには、今の普通の感覚では分からないようなことが無数にあると思う。
さて、こういう大状況を慰安婦問題では14日のエントリーにこう書かせて頂いた。
『③次いで、僕が最も力説してきたのはこのことだ。朝鮮は1873年征韓論・西郷隆盛の出兵騒動を経て1875年江華島事件以来東学教徒鎮圧など数々の皇軍暴力を経て、1910年に植民地にされた。その後はまたさらに、35年間植民地だった。その間日本への反乱、反抗行為は絶えず、女囚房も含めた政治犯刑務所なども「大盛況」であった。こういう国の女性が「任意の自由意思で売春婦になった」と植民地にした側の人間が現在語っているのだが、あまりにも違和感がある。1929年の世界大恐慌以降は、日本でも「娘売ります」があったことを考えれば、朝鮮半島では同じ事がもっと多かっただろうと十分に推察できるからだ。つまり、植民地宗主国が広義にはそういう事態を多く作ってきたとも言えるのである。政治犯として家の主などが殺された例なども数知れずだったのだから、少なくとも広義の強制は絶対にあったと言いたい。
以上から、平時の「(保護者の意思も含めた)任意自由意思の売春婦」のように日本人が語るのは、道義的には全く許されないどころか、犯罪的行為とさえ思うものだ。ドイツが、占領したフランスに今ヘイトスピーチをやるのと同じ行為であるという事実を、少しは考えてみたらよい。』
南京虐殺にはこんな大状況があったとは、歴史家たちも指摘する所である。
『 上海大攻防戦は37年8月(13日)に始まり11月(9日)にほぼ一段落した。その直後12月から翌年まで続いたのが、南京虐殺である。上海攻防戦自身が、揚子江沿いのすぐ上流にある首都南京防衛の為とも言えて、二つは切り離せないということ。
こうしてここでは、南京の人口が急に増えた事が肝心だと言いたかったのが分からないのかな?』(拙コメントから、一部追加、修正)
つまり、3ヶ月続いた大激戦から、揚子江沿い上流の南京に向かって潰走して行く南京政府軍と、それを追って先陣争いの日本軍という構図が存在した。なお、この上海と揚子江流域にはドイツ式の装備・訓練による最精鋭部隊30万の中央軍が配備され、上海戦への延べ中国軍投入兵力は70万といわれて、第一次大戦最激戦であったベルダン要塞戦にも例えられる激しさと聞いてきた。
なお、南京政府軍15万は、12月12日夜から13日朝にかけて日本軍包囲網からの退却を図ったが、揚子江を渡れた将兵は極めて少なかったと言う。
こういう大状況下の日本兵の心境、捕虜への態度などを、華中方面従軍作家石川達三はこう描いていたという。
『南京は敵の首都である。兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗っとることは決定的な勝利を意味する』(岩波新書日本近現代史全10巻シリーズの第5巻、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授著「満州事変から日中戦争へ」から)
『不十分な補給のままの追撃戦による鬱積、中国兵への蔑視の感情が日本側にはあった。作家の石川達三(北支の従軍記者だった)は兵士の感情をよく観察していた。「殊に兵隊の感情を苛立たせる原因となったものは、支那兵が追いつめられると軍服をすてて庶民の中にまぎれ込むという常套手段」。(中略)また、兵士たちは捕虜の取り扱いに窮した。石川は率直に「こういう追撃戦ではどの部隊も捕虜の始末に困るのであった」と書いていた。この混乱の渦中に南京事件は起きた』(同上書)
なお、33年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」には、こういう一文があるという事実も付記しておきたい。わざわざ、兵にこう教えていたのである。
『「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『餓死した英霊たち』)。』(同上書)
コメント (13)】