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新たな名なしさんへ『「慰安婦」「南京」の大状況』  文科系

2017年01月20日 09時13分26秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 新たな名なしさんが、また右流歴史論をここで振り回し始めた。「9条」の名を冠したここを始めてもう同じ論議を何度繰り返してきたことか。今回も、南京虐殺は2万人だなどと日中学者会議の日本学者側認定数字2万~20万人の最少数字をわざわざ上げられて、「南京の人口がこんなに少ないのに?!」といういつもの右流論理も臭わせつつ、例によって鬼の首でも取ったように。反論として先ず、以下の過去拙稿をあげておこう。 

【「慰安婦」「南京」の大状況を見る 文科系 2015年02月17日 |

 反米保守さんと今、この二つの問題が論議になっている。これらの論議でいつも思うある事を今日は書いてみたい。
「強制もなかったし、虐殺も通常の戦時ていどである」と右の方々が語る時、いつも或る事を忘れているような気がしていた、そのことを。慰安婦問題にしても南京虐殺にしても、それが起こった非常時の背景など、今の人には分かりにくい大状況のことである。裁判などでは事件の事実認定を徹底するが、同時に背景、動機なども同じくらい重要なものとなるはずだ。特に、植民地とか激戦時とかには、今の普通の感覚では分からないようなことが無数にあると思う。

 さて、こういう大状況を慰安婦問題では14日のエントリーにこう書かせて頂いた。
『③次いで、僕が最も力説してきたのはこのことだ。朝鮮は1873年征韓論・西郷隆盛の出兵騒動を経て1875年江華島事件以来東学教徒鎮圧など数々の皇軍暴力を経て、1910年に植民地にされた。その後はまたさらに、35年間植民地だった。その間日本への反乱、反抗行為は絶えず、女囚房も含めた政治犯刑務所なども「大盛況」であった。こういう国の女性が「任意の自由意思で売春婦になった」と植民地にした側の人間が現在語っているのだが、あまりにも違和感がある。1929年の世界大恐慌以降は、日本でも「娘売ります」があったことを考えれば、朝鮮半島では同じ事がもっと多かっただろうと十分に推察できるからだ。つまり、植民地宗主国が広義にはそういう事態を多く作ってきたとも言えるのである。政治犯として家の主などが殺された例なども数知れずだったのだから、少なくとも広義の強制は絶対にあったと言いたい。
 以上から、平時の「(保護者の意思も含めた)任意自由意思の売春婦」のように日本人が語るのは、道義的には全く許されないどころか、犯罪的行為とさえ思うものだ。ドイツが、占領したフランスに今ヘイトスピーチをやるのと同じ行為であるという事実を、少しは考えてみたらよい。』

 南京虐殺にはこんな大状況があったとは、歴史家たちも指摘する所である。
『 上海大攻防戦は37年8月(13日)に始まり11月(9日)にほぼ一段落した。その直後12月から翌年まで続いたのが、南京虐殺である。上海攻防戦自身が、揚子江沿いのすぐ上流にある首都南京防衛の為とも言えて、二つは切り離せないということ。
 こうしてここでは、南京の人口が急に増えた事が肝心だと言いたかったのが分からないのかな?』(拙コメントから、一部追加、修正)

 つまり、3ヶ月続いた大激戦から、揚子江沿い上流の南京に向かって潰走して行く南京政府軍と、それを追って先陣争いの日本軍という構図が存在した。なお、この上海と揚子江流域にはドイツ式の装備・訓練による最精鋭部隊30万の中央軍が配備され、上海戦への延べ中国軍投入兵力は70万といわれて、第一次大戦最激戦であったベルダン要塞戦にも例えられる激しさと聞いてきた。
 なお、南京政府軍15万は、12月12日夜から13日朝にかけて日本軍包囲網からの退却を図ったが、揚子江を渡れた将兵は極めて少なかったと言う。

 こういう大状況下の日本兵の心境、捕虜への態度などを、華中方面従軍作家石川達三はこう描いていたという。
『南京は敵の首都である。兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗っとることは決定的な勝利を意味する』(岩波新書日本近現代史全10巻シリーズの第5巻、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授著「満州事変から日中戦争へ」から)
『不十分な補給のままの追撃戦による鬱積、中国兵への蔑視の感情が日本側にはあった。作家の石川達三(北支の従軍記者だった)は兵士の感情をよく観察していた。「殊に兵隊の感情を苛立たせる原因となったものは、支那兵が追いつめられると軍服をすてて庶民の中にまぎれ込むという常套手段」。(中略)また、兵士たちは捕虜の取り扱いに窮した。石川は率直に「こういう追撃戦ではどの部隊も捕虜の始末に困るのであった」と書いていた。この混乱の渦中に南京事件は起きた』(同上書)

 なお、33年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」には、こういう一文があるという事実も付記しておきたい。わざわざ、兵にこう教えていたのである。
『「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『餓死した英霊たち』)。』(同上書)

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「従米か愛国か」、孫崎享の2書の要約 ③   文科系

2017年01月20日 08時58分23秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 5 対米自主派の消滅

 ②官僚(①は前回書いた)
 細川、福田、鳩山らの上記のように不思議な辞任には当然アメリカが関わっていよう。なんせ、90年代以降にCIAが扱う仕事の4割が国際経済問題なのであって、当時のその最大ターゲットが、以上に見てきたように日本だったのであるからだ。
 さて、政治家の次には、日本政治のシンクタンクと孫崎も呼ぶ官僚が狙われることになったということだ。強面の元駐日大使アマコストが90年代半ばにこう語っていると、孫崎は書く。
『「政治環境から見て、これまでより規制緩和がしやすくなったのに、現実の前進はまことに微々たるものである。その理由を求めるのはむずかしくない。最も巧妙かつ執拗な抵抗は、他ならぬ官僚機構によるものである。日本の経済と政治を牛耳ることを許している規制緩和制度を抜本的に変えようという動機は、官僚側にはほとんどない」』
 ここに1998年官僚制度の牙城大蔵省で有名な「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」が摘発され、官僚たたきの声がかってなく激しくなっていった。
『わずかに残っていたシンクタンクとしての官僚機構を崩壊させられた日本からは、国家戦略を考える組織が完全に消滅してしまったのです』

 ③マスコミ
 こういう官僚から日々レクチャーを受けているに等しいマスコミ政治記者などの自主派も、落日を迎えることになった。孫崎は自分自身の中央公論との関わりを一例に取って、これを説明するのだ。
『私は2003年、「中央公論」5月号に「『情報小国』脱出の道筋」と題した評論を書き、間接的な形でイラク戦争を批判しました』
『私は中公新書『日本外交 現場からの証言』で山本七平賞をいただいてから、中央公論社から毎年2~3本の論評を掲載しますといわれていたのです。しかし2003年5月の間接的な批判ですら受け入れられなかったのでしょう。このあと中央公論から論評の依頼はなくなりました』
「アメリカに潰された政治家たち」に3人の座談会が収められていて、そのうちのひとり高橋洋一は、こう語っている。大蔵官僚出身で、内閣参事官(総理補佐官補)をやった人物だ。
『政治家の対米追従路線の中で、霞ヶ関ではアメリカのいうことを聞く官僚グループが出世していく。彼らは自分たちの立場、利権を守るために、アメリカは何もいっていないのに「アメリカの意向」を持ち出す。とくに財政や金融に限っていうと、そうしたケースが非常に多い。霞ヶ関では財務省のポチができるとそれが増殖する。メディアもポチになって、ポチ体制が確立すればその中から出世する確率が高くなる。そうするとさらにポチ集団が膨らんでいくという構図です』

 なんのことはない。従米派増殖は出世が動機なのだ。そして、在任期間が長かった首相、吉田茂、池田勇人、小泉などを見ると、アメリカの支持がその最大要件であったように、アメリカこそ今の日本の権力者たちを作っていると、孫崎は述べているのである。


 6 小沢一郎の”油断”

 ①新政権発足直前の問題発言からたった7日で秘書の逮捕
 
 以下は、孫崎の「アメリカに潰された政治家たち」からの抜粋を中心として進むが、事の起こりは民主党新政権09年9月発足前の小沢の発言であったと言う。夏の総選挙を控えた2月24日、強気になっていた小沢は奈良県でこんなことを記者団に語ったのだ。
『 「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。・・・極東におけるプレゼンスは第七艦隊で十分だ。あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う」・・・・この発言を、朝日、読売、毎日など新聞各紙は一斉に報じます。(中略 ここに、共同通信のアメリカ関係者の反発発言が細かく紹介されている)・・・発言から1か月も経っていない09年3月3日、小沢一郎の資金管理団体「陸山会」の会計責任者で公設秘書も務める大久保規と、西松建設社長の國澤幹雄ほかが、政治資金規正法違反で逮捕される事件が起きたのである。』
 僕は、こういうことが書ける所に、この著者のアンテナの鋭さを見たいと思う。「この発言は危ないぞ」という認識力が情報部門責任者を務めてきた人らしいと。ちなみに、僕がいままでも紹介してきた孫崎の持論「アメリカの虎の尾2本」のうちの一方を、小沢の発言が踏んだということになるのである。発言と秘書逮捕との間隔も、孫崎が言うように「発言から1か月も経っていない」どころか、たった7日目のことではないか。それも政権交代が噂された超微妙な時期の、次期首相を噂された人物の発言とその秘書逮捕となのである。

 さて今振り返れば、この発言と秘書逮捕によって民主党初代小沢内閣の目が消えたわけである。日本政界にとっては、新政権の話題性も相まって戦後ちょっとないような大変な出来事だったと言えるのではないか。問題の疑惑というのがまた、3年以上も前の話だ。まるで、彼のアラを見つけ出し、取っておいて、このときとばかりに告発すると、まるで首相の目をなくするための「予防拘禁」のようなものに見えないか。挙げ句の果てが、今日現在までずるずると小沢を引っ張り続けるなどあらゆる手を尽くしても、有罪にできなかったと言うおまけまでついた話である。米CIA得意の手法の一つなのであろうか。

 ②反撃に出た小沢
 
 孫崎はこう語り継いでいく。
『ここから小沢はアメリカに対して真っ向から反撃に出ます 』
 この反撃部分は全文抜粋しておく。外務省最高の情報責任者であった孫崎が「アメリカの2本の虎の尾」と見てきたものを相次いで踏み越えていこうとした小沢が、今の僕には痛快この上なく見えるからだ。
『鳩山と小沢は、政権発足とともに「東アジア共同体構想」を打ち出します。対米従属から脱却し、成長著しい東アジアに外交の軸足を移すことを堂々と宣言したのです。さらに、小沢は同年12月、民主党議員143名と一般参加者483名という大訪中団を引き連れて、中国の胡錦濤主席を訪問。宮内庁に働きかけて習近平副主席と天皇陛下の会見もセッティングしました。
 鳩山首相については次項で述べますが、沖縄の米軍基地を「最低でも県外」に移設することを宣言し、実行に移そうとします。
 しかし、前章で述べたとおり、「在日米軍基地の削減」と「対中関係で先行すること」はアメリカの”虎の尾”です。これで怒らないはずがないのです 』

 ③僕の感想

 僕の感想を少々。小沢は合理的なだけに考えすぎて、敵を見誤ったのだと思う。戦後半世紀の冷戦体制が終わってもこれまでの軍事力以上のものを世界に持ち続けているというアメリカの不条理な意図をば、普通の人間の判断力で解釈しすぎたと。僕にはそう思えて仕方ないのである。他方それに加えて、こんな気もする。
 田中角栄はアメリカ、ニクソン大統領にぎりぎり先駆けて日中国交回復をなしたことへの報復としてロッキード事件の憂き目を見た。彼の電撃的な日中国交回復とは、その寸前にこの動きを察知したキッシンジャー国務長官が他国政治家と同席の場所でものすごい呪いの言葉を発して罵倒したもの。このことは、いまやもう有名な話だ。小沢一郎は、師匠角栄のロッキード裁判を全部傍聴したたったひとりの国会議員である。そこで僕はこんな推察もする。小沢が若いころ、すでにこんな決意をしていたのではないかと。いつか力をつけて、日中友好をもっと進めて見せよう。それまではすべて我慢だ。そして47歳で自民党幹事長になった。「まだまだ早い」。50歳を超えた1993年にベストセラーになった「日本改造計画」を世に出しても、まったくアメリカの意向に沿う内容だけだった。そして、新政権確実となって、かつ冷戦後20年近くなったという勇み足から、アメリカの世界戦略をば常識的に判断しすぎたのではなかったか。さらに加えて、日本の検察がここまでアメリカに抱き込まれているとは、内部の者以外には決して分かることではなかったはずだ。孫崎も書いているように『西松建設事件・陸山会事件を担当した佐久間達哉・東京地検特捜部長(当時)も同様に、在米日本大使館の一等書記官として勤務しています』という事実があったとしても。

(続く)
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