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太平洋戦争 岩波近現代史シリーズ要約 五   文科系 

2021年08月20日 01時06分46秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 太平洋戦争の東條英機


はじめに
 41年12月8日、この日を当時の子どもがどう覚えていたか。そういう記事を一気に読んで、すぐに表記の記事を書こうと、僕は思い立った。当時の子どもたちの心にさえ深く刻み込まれた「戦争への感動」、その象徴的存在であった東条首相への熱狂ぶりについて書いてみようと。僕の同人誌にも往時の軍国少年、軍国少女がお一人ずついらっしゃる。お二人とも、その後の人生はなかなか優秀だったろうとお見受け出来る方々である。今は多分、その正反対の人生観をお持ちのはずだが。
 東条英機は、A級戦犯の象徴的存在。41年12月8日開戦時の首相にして内相であって、陸軍大臣を兼務した、現役の陸軍大将である。また、陸軍参謀総長も兼任していたから、大元帥・天皇の大本営の幕僚長でもあった。彼の前歴には、関東軍憲兵隊司令官というものもあった。満州国の治安の要に位置する機関であって、35年9月から37年2月のことである。娑婆、「地方」(軍隊は軍隊の外の世界をこう呼んだのでした)、世相にも、よく通じているのである。
 彼は、天皇の信任は篤く、水戸黄門まがいの「民衆査察」を行い、ラジオ、新聞を上手く使って民心を躍らせ、掌握した。ヒットラーにも劣らないその掌握術を、ご紹介したい。種本は例によって、岩波近現代史シリーズ10巻本の第6巻「アジア・太平洋戦争」。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授である。【 】がほとんどであるが、ここからの抜粋を示している。 

1 人々の東條支持熱
 その人気は、一時の小泉旋風などという次元のものではない。戦争の英雄たちの、そのまた大元締、空前絶後の国民的大英雄なのである。そういう大英雄が、マスコミによって実に身近な存在に描かれるところがまた、お見事というほかはないのである。
 【 東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新開』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〃万歳々々″と歓声をあげ、(中略)あつといふ間に東条さんを取り囲む。「しつかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「公会堂発」、「総理自動車会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約十分、会衆の中を徐行す」とあることからもわかる(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)。
 さらに、東条に関するすぐれた評伝をまとめた作家の保阪正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保阪『東条英機と天皇の時代(下)』) 】

 当時、東条報道を新聞がどう行ったかもなかなか興味深い。【例えば、42年8月18日付の『読売報知』は】として、こんなことが抜き出されていた。
【 「忙中忙を求める東条さん」、「割引市電で街の視察 鋭い観察力と推理力の種は正確なメモ 拾った民情必ず”決済”」という見出しの記事を掲載し、「キビキビした政務の処理、そして電撃的な民情視察・・・国民は曾てこれほど”首相”を身近に感じたことはなかった。・・・とにかく、そこに新しい一つの”指導者の形”が打ち出されているのは確かだ」と論じている 】

2 民心操縦ぶり
【 総力戦の時代は、多数の国民の積極的な戦争協力を必要不可欠なものとする。そうした時代にあっては、力強い言葉と行動で、直接国民に訴えかけるタイプの指導者が求められる。東条は、そのことをよく理解していた。43年9月23日、東条は側近に次のように語っている(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)
  国民の大多数は灰色である。一部少数の者が批判的言動を弄するものである。そこで国民を率いてゆく者としては、此の大多数の国民をしっかり摑んでぐんぐん引きずつてゆくことが大切である。大多数の灰色は指導者が白と云へば又右と云へばその通りに付いてくる。自然に白になる様に放つておけば百年河清を待つものである。
 東条の芝居がかったパフォーマンス、特にたびかさなる民情視察は、識者の反発と顰蹙をかった。特に、東条が住宅街のゴミ箱をチェックしてまだ食べられるものや再生可能なものが捨ててあると非難したことは多くの国民の失笑をかった。首相として他にやるべきことはないのかという批判である 】

3 政治力の源泉、宮中工作ほか
 マスコミ総動員で作ったこういった東条の「表の顔」の他に、政治家としての裏の顔があるのもまた当然。
 【 政治資金の面でも、東条首相は有利な立場にあった。陸相として陸軍省の機密費を自由に使うことができたからである。この点については、いくつかの証言がある。例えば、元陸軍省軍務局軍事課予算班長の加登川幸太郎は、「何に使ったかわからんけど、東条さんが総理大臣になった時、(中略)三百万円という機密費三口を内閣書記官長に渡せ、と来るんだね。(中略)あの頃二百万円あったら飛行機の工場が一つ建ったんだから」と回想している(若松会編『陸軍経理部よもやま話』)。 (文科系による中略)
 なお、臨時軍事費中の機密費の支出済額をみてみると、42年段階で、陸軍省=4655万円、海軍省=2560万円、44年段階で、陸軍省=1億2549万円、海軍省=1865万円であり、陸軍省が機密費を潤沢に使用していたことがわかる。
 東条首相の政治資金の潤沢さについては、44年10月15日に、反東条運動の中心となっていた政党政治家の鳩山一郎が、近衛文麿と吉田茂(戦後の首相)との会談の中で語っている内容が参考になる。同席していた細川護貞は、その内容を次のように記録している(『細川日記』)。
  一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話〔鳩山より〕出で、例えば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野〔伸顕元内大臣〕の所には、常に今も尚贈り物ある由。
 この後、鳩山は、「東条の持てる金は16億円なり」と語り、近衛は東条の資金源は、中国でのアヘンの密売からあがる収益だと指摘している。アヘン密売との関係については確証がないが、46年7月の国際検察局による尋問の中で、近衛の側近の富田健治が、東条はアヘン売買の収益金10億円を鈴木貞一陸軍中将(興亜院政務部長)から受けとったという噂があると指摘している。興亜院は、アヘンの生産と流通に深くかかわった官庁である。皇族への「附け届け」については、史料的に確認することができる。42年12月月30日付の「東久邇宮稔彦日記」に、「この度、陸軍大臣より各皇族に自動車をさし上げる事となれり」とあり、この日、東久邇宮のところには、陸軍省関係者から、アメリカ製の自動車が届けられているからである 】

 

(終わりです)

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