「自宅療養」? 「宿泊施設療養」? コロナ患者に対するこれらの言葉を一体どう解したら良いのか。大阪や東京などではここに「重症患者」が含まれているから、これらの言葉はもう「命の選択」が始まっているということ。「重症なのに落とされた人」。命の選択を体よく言い換えた言葉にすぎない。事実、こう発表されたのである。
『(7月以降)自宅・宿泊療養中死亡45人』
こういう病床不足が東京五輪強行によってもたらされた事もすでに明らかとなった。こうして、死者総数1万6000人超えというコロナ最悪状況を招いた東京五輪である。国政にとって主権者の命ほど重視すべきものは他にないというのに、国は国民の命を賭けて五輪開催を選択し、賭けに失敗したのである。
さて、この間中、活動制限によってこれだけ国民が心身を弱らせている時に、日本国国会が開かれていない。総選挙前の野党質問、追及を嫌ってのことだと言われてきた。国会絶対多数にアグラをかいた行政による、立法に対する暴力である。ウソやご飯論法、口から出任せ答弁で国会を「乗り切ってきた」、その延長流儀なのでもあるのだろう。
さらには、この総選挙前にあるはずの自民党総裁選挙をめぐって、候補者らの安倍前総理詣でが続いているという。9年間の総理経験を通じて、国民の給料をどん底まで落とし込んできたお人が国政を握っているわけだ。絶対多数の立法も、そして行政首班指名でも。このお方はさらには、黒川検事総長実現目指して、司法権までも握ろうとされて失敗すると言う実績もお持ちである。検事総長が、国の裁判への起訴権を唯一握る機関の長だから、そうなる。立法・行政・司法という三権の分立、この破壊工作こそ首相経験9年間の集大成でもあったのだろうか。
三権分立の破壊寸前まで行ったお方が、国の政治を握っている。ちなみに、このお方が最高顧問をやられている「日本会議のよびかけ文」は、こんな日本国家観を国民に訴えている。
『 125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。
しかし、戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。』
ここに言う「わが国の誇るべき宝」の価値をどうしても認められない僕などは、「社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力」にはなれませんよと述べておられる。こういう政治思想は、全体主義にしかならないはずだ。習思想を奉じずば、国民にあらずというのと同様の意味において。