「生きる」難しさ一つ
「自慢癖の悩み」という随筆を4年ほど前に書いたことがあり、以降ずっと僕の生活課題であり続けてきた。自分や父母兄弟の学歴や職業などを他人との会話の中などですっと口から出してしまう僕自身のスノッブさ、俗物性を正直に書いた作品だった。ことの性質上、読んで貰った連れ合いからは、こんな感想を貰ったものだ。
「凄いこと書くねー」
人が自分の欠点としてなかなか筆にはしにくいことだからだろう。俗物そのものの人も、洗練されたスノッブも、こんなことを書こうとはまず思いつかぬはずだし。対する僕はこの癖が出た後はよく悲鳴を上げている自分がいるから、それをも正直に書いてその正体を覗いてみて、この癖からちょっと楽になりたかったのである。
ただ、この作品を書いた時のこの作業は隔靴掻痒。正体も対策もろくに分からなくって、ただ、自分の恥を曝しただけに終わった。正直は正直なのだが、これでは太宰治の「人間失格」とか、その人生みたいなもんだ。僕は、正直なようでスノッブだと感じて、彼が嫌いなのである。当時の「謙譲」日本と違ってこんな自己宣伝時代の洗練された若者たちなら、太宰のスノッブ隠しなどすぐに見抜くだろうと、よく思うことであった。
最近この自慢癖の自覚、そこからの開放に関わって、一つ気付いたことがある。俗物的自慢と、中身がある「自慢」・自己主張とを自分の中でごちゃごちゃにしていたと気付いた。すると、こんな発見があった。前者は文句なくなくしたいが、後者はこんなタルイ時代には続行しないわけにはいかんだろう、と。この二つを僕が区別しなかったところに実は、「自慢癖の悩み」が生じていたのではないかとも、今分かったような気がしている。
さて、「空気、読めよ」という言葉が流行っている。場の空気を乱すなよ、突出するなよという程度の意味だろう。で、この言葉、時代に対して使われたらどんな役割になるか。例えば、イラク戦争、太平洋戦争のような時代には「厭戦言動は敵だ」と隣人が隣人を諭すようなもんになろう。太平洋戦争開戦前夜に反戦を唱えた人は「空気が読めない」最たるもの、それどころでは到底済まず、政治犯である。でも今にして思えば、あの空気は社会の上層部によって年月かけて周到に作られたもの。当時の空気を率先して醸成することを通じて「社会的立場」を創るとか、「有名になりたい」人々によって。だから、当時「空気読めよ」と諭した人は、社会的正義など無縁で、人としてまっとうな主体性が欠けた「気持ちよくやろうよ」人生ということになる。これがいわゆるポピュリズム政治の大衆的源泉なのだろう。
ことが戦争でなくとも、例えば一生懸命やっている文化サークルなどでも同じだ。懸命にやる人ならその活動を表現もし、その「言行一致」的前進を他人と共有、確認しあいたいもの。強い批判や突出も、当然「押し付け」や「自慢」さえ「止めとけ」ということにはならないだろう。これしも、「空気読めよ」とやりあうなら、ちょっとタルイ場というしかない。
だが以上全てだけで万々歳とも行かぬのが人生。「自慢癖」を読み取る側の正体が、競争時代の「主」であったり、「不本意な今」という人の妬みであったりもするから、このポピュリズム社会の「タルイ問題」は、そう容易いものでもないのである。今回は僕として、そんなことにも気付いた。「人」の生って、やっぱり難しい。
「自慢癖の悩み」という随筆を4年ほど前に書いたことがあり、以降ずっと僕の生活課題であり続けてきた。自分や父母兄弟の学歴や職業などを他人との会話の中などですっと口から出してしまう僕自身のスノッブさ、俗物性を正直に書いた作品だった。ことの性質上、読んで貰った連れ合いからは、こんな感想を貰ったものだ。
「凄いこと書くねー」
人が自分の欠点としてなかなか筆にはしにくいことだからだろう。俗物そのものの人も、洗練されたスノッブも、こんなことを書こうとはまず思いつかぬはずだし。対する僕はこの癖が出た後はよく悲鳴を上げている自分がいるから、それをも正直に書いてその正体を覗いてみて、この癖からちょっと楽になりたかったのである。
ただ、この作品を書いた時のこの作業は隔靴掻痒。正体も対策もろくに分からなくって、ただ、自分の恥を曝しただけに終わった。正直は正直なのだが、これでは太宰治の「人間失格」とか、その人生みたいなもんだ。僕は、正直なようでスノッブだと感じて、彼が嫌いなのである。当時の「謙譲」日本と違ってこんな自己宣伝時代の洗練された若者たちなら、太宰のスノッブ隠しなどすぐに見抜くだろうと、よく思うことであった。
最近この自慢癖の自覚、そこからの開放に関わって、一つ気付いたことがある。俗物的自慢と、中身がある「自慢」・自己主張とを自分の中でごちゃごちゃにしていたと気付いた。すると、こんな発見があった。前者は文句なくなくしたいが、後者はこんなタルイ時代には続行しないわけにはいかんだろう、と。この二つを僕が区別しなかったところに実は、「自慢癖の悩み」が生じていたのではないかとも、今分かったような気がしている。
さて、「空気、読めよ」という言葉が流行っている。場の空気を乱すなよ、突出するなよという程度の意味だろう。で、この言葉、時代に対して使われたらどんな役割になるか。例えば、イラク戦争、太平洋戦争のような時代には「厭戦言動は敵だ」と隣人が隣人を諭すようなもんになろう。太平洋戦争開戦前夜に反戦を唱えた人は「空気が読めない」最たるもの、それどころでは到底済まず、政治犯である。でも今にして思えば、あの空気は社会の上層部によって年月かけて周到に作られたもの。当時の空気を率先して醸成することを通じて「社会的立場」を創るとか、「有名になりたい」人々によって。だから、当時「空気読めよ」と諭した人は、社会的正義など無縁で、人としてまっとうな主体性が欠けた「気持ちよくやろうよ」人生ということになる。これがいわゆるポピュリズム政治の大衆的源泉なのだろう。
ことが戦争でなくとも、例えば一生懸命やっている文化サークルなどでも同じだ。懸命にやる人ならその活動を表現もし、その「言行一致」的前進を他人と共有、確認しあいたいもの。強い批判や突出も、当然「押し付け」や「自慢」さえ「止めとけ」ということにはならないだろう。これしも、「空気読めよ」とやりあうなら、ちょっとタルイ場というしかない。
だが以上全てだけで万々歳とも行かぬのが人生。「自慢癖」を読み取る側の正体が、競争時代の「主」であったり、「不本意な今」という人の妬みであったりもするから、このポピュリズム社会の「タルイ問題」は、そう容易いものでもないのである。今回は僕として、そんなことにも気付いた。「人」の生って、やっぱり難しい。