万葉からだ歌(十四)「気心」気ごころ知れず N・Rさんの作品です
秋山の樹の下がくり逝く水の
吾こそまさめ御心よりは
── 私の恋心は、木の下を流れる水のように、目には見えぬが、君の心よりも深いのです──
玉くしげみむろの山のさなかづら
さ寝ずはついにありかつまじし
──あなたとの共寝を私の心は、いつも夢に見て願っております──
前歌は、鏡王女の恋歌。これに対して後歌は藤原鎌足大臣が、あっけらかんと返歌した心歌の一首。
今回は、万葉からだ歌の「心」に迫ってみようと思った。それなのに、万葉全歌四千五百余首は、いずれも“人恋う心言葉”ばかり。心にもない歌は、一首も詠まれていない──と知らされた。
ただ一つ問題があるとしたら、「気」と「心」の分け詠みがない点だ。「気」と「心」は一つのものか、二つなのか。どうちがうのか、その関係はどうなっているのか──さっぱりわからないこと。
古代では、きっと「気」も「心」も「魂」「精神」「肝っ玉」までが一つのものだった。現代、身近に、何気なく口にしている「その気になる」「気がすすまない」「気がせく」「気を落とす」「気が抜ける」「生意気」「人気」「気立て」「勇気」「和気」「気疲れ」「気を休める」などの言葉は現れない。
さらに「気が多い」「気が散る」も心、霊、魂、精神の言葉になっている。現在でも「狂気」「気がへんになる」は「乱心」ですませているから、“気心”どちらでもよいかもしれない。
加えて「情」「肝っ玉」「念」までもが思いと読ませて、“心言葉”に入っている。たしかに「気を入れろ」は「魂を入れろ」で事足りるけど。だから区分けの出来ない“気心言葉”には、ちがいない。
現身の人なる吾や明日よりは
二上山を弟背と吾が見む
──弟大津の皇子の死に対して、姉の大来皇女(おほくのひめみこ)が、心から呼びかけて山に向かって詠んだもがり歌も秀歌に入っている。
秋山の樹の下がくり逝く水の
吾こそまさめ御心よりは
── 私の恋心は、木の下を流れる水のように、目には見えぬが、君の心よりも深いのです──
玉くしげみむろの山のさなかづら
さ寝ずはついにありかつまじし
──あなたとの共寝を私の心は、いつも夢に見て願っております──
前歌は、鏡王女の恋歌。これに対して後歌は藤原鎌足大臣が、あっけらかんと返歌した心歌の一首。
今回は、万葉からだ歌の「心」に迫ってみようと思った。それなのに、万葉全歌四千五百余首は、いずれも“人恋う心言葉”ばかり。心にもない歌は、一首も詠まれていない──と知らされた。
ただ一つ問題があるとしたら、「気」と「心」の分け詠みがない点だ。「気」と「心」は一つのものか、二つなのか。どうちがうのか、その関係はどうなっているのか──さっぱりわからないこと。
古代では、きっと「気」も「心」も「魂」「精神」「肝っ玉」までが一つのものだった。現代、身近に、何気なく口にしている「その気になる」「気がすすまない」「気がせく」「気を落とす」「気が抜ける」「生意気」「人気」「気立て」「勇気」「和気」「気疲れ」「気を休める」などの言葉は現れない。
さらに「気が多い」「気が散る」も心、霊、魂、精神の言葉になっている。現在でも「狂気」「気がへんになる」は「乱心」ですませているから、“気心”どちらでもよいかもしれない。
加えて「情」「肝っ玉」「念」までもが思いと読ませて、“心言葉”に入っている。たしかに「気を入れろ」は「魂を入れろ」で事足りるけど。だから区分けの出来ない“気心言葉”には、ちがいない。
現身の人なる吾や明日よりは
二上山を弟背と吾が見む
──弟大津の皇子の死に対して、姉の大来皇女(おほくのひめみこ)が、心から呼びかけて山に向かって詠んだもがり歌も秀歌に入っている。