たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

わたしの2011年3月11日(2)

2014年03月12日 11時19分46秒 | 東日本大震災
昨日ブログに書きながら、3年前のことがあらためてまざまざと蘇ってきました。

最初に大きな揺れがきて、その後どれぐらいの間隔だったのか思い出せませんが、さらに大きく揺れ始めました。その揺れはしばらく続いたと思います。これはもうダメなのではないか、
一瞬そんな思いが頭の中をよぎった恐怖心を今も体がおぼえています。
(今一方的に切られようとしている)職場の建物の8階で震えあがっていました。
わたしの机は整理が悪くて書類であふれかえっていたのですが、全部落ちました。
キングファイルが並んでいる棚から、ばたばたと音をたててあっという間にファイルが全部落ちました。

いったん大きな揺れがおさまった時、職場の人たちと建物の外に出ました。
風の冷たい中、すぐ前にあるバス停の屋根の下で、続く揺れに震えあがっていました。
他のビルからも人がたくさん外に出ていました。
大通りを挟んだ向かい側に免震構造でしょうか、今にもバタンと倒れそうなほど揺れているビルがあって、恐ろしくてたまりませんでした。悲鳴を上げている人もいました。

1時間ほど外にいたでしょうか。
テレビがないので、16時過ぎぐらいだったと思いますが、インターネットで、最初の津波が
岩手県の海岸に襲いかかってくる映像をみました。
ワンセグテレビを持っている人がいて、宮城県仙台市の若林区で刻々とご遺体がみつかっている状況を教えてくれました。
でも東北がなにが起きたのか、その時はまだよくわかっていませんでした。

電車が止まって帰宅をあきらめた人たちと一緒に近くの中華料理屋さんに行きました。
外に出るとすでに大通りは歩き始めた人たちであふれかえっていました。
銀行のATMも使えるのではないかと言う人がいたので焦ってお金を引き出しに行きました。
日本沈没が現実のものになるのではないか、そんな会話を食事の席でしました。
本当に何が起こったのかわからず、不安と恐怖心でいっぱいでした。

建物に戻ってから、段ボールを引いたりして横になる方もいましたがわたしはできませんでした。
停電にならなかったので一晩中も暖房はついていたし、お手洗いも使えました。
わたしは受け取りませんでしたが、備蓄の水が入口で配布されていました。

眠れないまま一晩中、8階から大通りを見おろしていました。
大通りは歩く人々と身動きできなくなったバスや宅配便の車などであふれかえっていました。
午前2時ごろまで渋滞と人の波は続いていました。

わたしはインターネットをずっとみていて頭がクラクラしてきた3時頃、
しばらく目をつぶって眠れなくても机にもたれかかってじっと坐って休んでいました。
電車が動き始めていましたが、明るくなるのを待ち、同じ方面のおじさま二人に一緒に帰ってくれるよう頼み、3人で5時ぐらいだったと思いますが職場を出ました。
一人では心細くてどうしようもありませんでした。
電車の中でも緊急地震速報が出て携帯が一斉に鳴り、震えあがっていました。
無事に最寄り駅についた時の安ど感、
住宅街は何事もなかったかのようにしんとしていました。
7時頃、自分の部屋に辿り着いたとき、停電した形跡がありましたが、思ったほど物は散らばっていませんでした。
あとで整骨院の人などに話をきくと、一晩中停電していて単身者の住んでいるマンションやアパートが多いので大変なことになっていたそうです。

このあと計画停電もあり、近くに知る人がいない心細さ、会社に行っている日中で普段買い物をしているお店は閉まってしまうので本当に食べる物が買えなくなるのではないかという恐怖心と不安、仕事は年度の切り替えで忙しかったし、どうにかなってしまいそうでした。押しつぶされそうでした。

直接被害を受けなかった地域の者ですらこうなのだから、東北の方々はどれほど大変だったか、想像の域を超えています。そして原発事故です。避難命令が出るとしたら自分は何をもって、何をあきらめて逃げるのだろう、考えてしまいました。
これ以来、物を減らしていく努力を続けています。
懐中電灯、携帯用トイレ、防寒シート、携帯ラジオ、ペットボトルを持たないと都心に行く電車に乗ることができなくなりました。

いつ来るかわからない次なる災害に備えてわたしたちは準備できているのだろうか。
原発をどうしていくんだろう。日本はこれからどこに向かっていくんだろう。
目先の行きあたりばったりなことはやめて、みんなであらためて考えていくことはできないものかと思います。