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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『土のコミュニケーション、水の旅』_「木靴の樹」より

2014年03月20日 22時33分09秒 | 映画『木靴の樹』
「木靴の樹」1990年公開映画パンフレット(株式会社フランス映画社発行)より引用します。

「木靴の樹」はいわば土のコミュニケーションをめぐる物語である。理念も制度も欠いた共産主義、映画の時空によってのみ可能な共産主義がここには夢のように花開いている。前近代的な小作農家の集落をコミュニケーションなどと呼ぶのはいかにも奇妙なことと聞こえるかもしれない。事実、彼らの経済生活は、共産主義的な共同性はもとより、いまだに資本主義的な自営業者の主体性さえ獲得していない。ここに登場する四家族はみなその生存のための生産手段、つまり耕作器具や家畜、そして何よりも土地の所有権を地主に奪われており、そのことから生じる悲劇的抒情の上に「木靴の樹」の物語全体が構築されている。だからここに、搾取の悪を告発する社会的正義の姿勢を見てとることも十分に可能だろう。だが、「木靴の樹」は、被搾取階級の不幸を押しつけがましく詠歎する社会劇ではない。「木靴の樹」は、物質と無意識についての映画である。物質の触覚性と無意識の豊かさの水準に、夢のような共産主義が実現する。ここには、土という物質を介して、経済的な現実の外でいかにして無意識のコミュニケーションが成立するかが描かれているのだ。

 土というこの言葉に、たとえば或る種の観念的な農村小説の題名となるときそれが帯びるような、過剰な象徴性を担わせる必要はない。濡れた土、乾いた土、飛び散る土、耕される土、つまり物質としての土が、ここには圧倒的ななまなましさで現前している。裸の土の感触がこれほど魅力的に描き出されている色彩映画もそう多くはないだろう。だがその魅力とは、それがいかに眼を楽しませるかといった単なる審美上の問題なのでもない。土は、四家族の成員の足の下に踏み締められることで、無意識のコミューンがかたちづくられる基盤をなしているのであり、言葉を奪われたこの無意識を、映画のみがなしうる仕方で可視化しつくしているところに「木靴の樹」の美しさがあるのだ。四つの家族の住まいはそれぞれ別々に分かたれているが、その一方で、彼らは大きな中庭を共有している。撮影監督を兼ねる演出家オルミがみずから回すキャメラで捉えたこの中庭の空間のすばらしさ。牛馬や荷車が行き交い、豚がされ、行商の馬車が店を開き、子供たちが駆け抜けるこの開かれた空間は、もはや私有という観念そのものが無効となってしまうような無名の土のコミュニケーションである。雪にぬかるんだ土の質感のみが可能にしている共同性の場所と言ってもよい。同じ土を踏み締めることで、彼らは家族という単位を越えて結びつく。三時間を越えるフィルムの複数の挿話を相互に縫い合わせているのは、この土の主題以外のものではない。

 実際、なぜ「靴」なのか。それが、人間の肉体を土へと結びつける特権的な道具だからだろう。土と深く触れあうために人はかえって靴という媒介を必要とするのであり、その喪失と再生、そして再生の代償という挿話がこの映画のもっとも大きな軸の一つをなすことになる。土が彼らのものでないように、靴の材料たるべき樹もまた地主の所有に帰する。だからこそバティスティの一家は最後に農場を追われることになるのだが、父が一晩かけて、幼い息子のために木片を靴へと刻んでゆくあの美しいシークエンスで、物質としての木はもはや誰のものでもなくなり、夢のような共同性を体現してゆくのだ。また、祭りの晩に金貨を拾うフィナールの挿話はどうか。土の上から拾い上げられ、馬の蹄の裏に、つまりたえず土と触れ合っている表層に隠された金貨は、またいつの間にか土の中へと戻ってゆく。私有の欲望は、土が表象しているおおらかな共同性の夢の前に破れ去ってゆく。経済生活の下部構造の彼方で、無意識のコミュニケーションが人々を包みこむ瞬間への夢想。病気の牛が礼拝堂の聖水によって、一命をとりとめる挿話が物語っているのもまたそれだろう。アンセルモ爺さんによる早熟トマトの栽培の挿話さえ同じことなのだと思う。普通よりひと月も早く実ったトマトを誇る彼の矜(きょう)持に私的なものだが、物質としてのトマトそれ自体が証し立てているのは、アンセルモ個人の所有権ではなくあくまで土の勝利そのものであるからだ。

 「木靴の樹」は土の映画である。だからこそ、映画のもっとも美しいシーンは水のシーンなのだ。結婚したばかりのマッダレーナとステファノがポー河を下る川舟に乗り、ミラノへ向かって新婚旅行に出発する場面の何という美しさ。映画の上映がここまで来て、川舟が岸を離れ水の上をゆるやかに滑り出すのを眼にするときにわれわれの覚える何とも形容しがたい解放感は、水が土にとって代わるところから来るものだ。土を離脱し、何の抵抗も滞りもなく水面を滑走してゆく快挙にひととき身を委ねることが、まだぎこちない若い恋人たちにとっての
新婚旅行なのである。もはや木靴が必要でない空間に彼らが滑り出し、岸に沿ってついてくる家族と隣人たちにおずおずとした合図を送る、とわれわれは、土によるそれとはまた別の共同性の夢想、播種と生長と定住の共同性ではなく反映と溶解と運動の共同性の夢想が全身にひたひたと満ちてくるのを覚え、映画とはこれなのだと唐突に確信してしまう。オーソン・ウエルズの「アーかディン氏」について語りながら、秀れた映画には必ず空港の場面があるという粗暴な断言をしていたのはトリフォーだったが、われわれはほとんど彼に倣って、河と川舟が出て来る映画は例外なく傑作だと言い切ってしまいたい気持ちに駆られる。

 「木靴の樹」の世界は、いかなる物質が人の足の下を締めているかによって、三つの空間に分かたれている。中心をなすのはあくまで土の空間なのだが、この若夫婦のみが滑り抜け、ミラノという都会に滞在してひととき石の空間を体験するのだ。石畳の都会とは、いわば革靴で歩く人々の世界である。新婚旅行という特権的な人生の休暇に、マッダレーナとステファノは木靴の世界をひととき離脱し、裸足の世界と革靴の世界に出会って静謐なおののきを味わう。この挿話的な迂回が「木靴の樹」の土のコミュニケーションに驚くべき物質的な豊かさを賦与しているのだが、それは単に土と水や石との鮮烈な対比にのみよるものではない。彼らが石の空間から持ち帰る一人の子供が、法的なまた経済的な個人私有とも共同所有とも異なる土のコミュニケーションの共同性の何たるかを、ただそこに言葉も発さずに存在しているだけで語りつくしているからなのだ。土地や農機具が他人のものであるように、「木靴の樹」が他人のものであるように、この乳児もまた他人のものである。だが、若夫婦はこれ以上ないほど自然なことであるかのように黙ってこの子供を受け入れる。所有の理念を超えたところで、土の物質的な現前によって媒介されつつ成立している無意識のコミューンの成員として、この子供以上にふさわしい存在はないことを直感したからだろう。もちろん、こうした思想は資本主義の冷酷な論理と相容れるものではない。この孤児と入れ代るようにしてバティスティの一家は農場から追放されてゆくのだが、映画の最後で、彼らが荷馬車に乗ってとぼとぼと去った後、夕闇に紛れるようにして三三五五集い来たり、もはや誰がどの家族とも区別しがたいような姿で中庭に立ち尽くす農民たちの、ロングの固定ショットで捉えられた悲哀の情景こそ、土のコミュニケーションの至高のイメージといってものであるかもしれない。

  
 松浦寿輝(詩人・フランス文学)