2014年3月22日に出席した「震災から3年_経済と世相」のシンポジウムで、慶応義塾大学の文学部としての取り組みが紹介されました。
荻野安奈先生が書かれた本が縁となって、石巻の安藤さんと言う漁師さんをたずねて、
2013年9月-10月に「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」が行われ、70名の学生さんが参加されました。
その報告書を荻野安奈先生と関根謙先生よりいただき、ブログに掲載することを了承いただきました。(お二人の先生には終わってから声を掛けさせていただきました。)
震災の後、「がんばろう日本」「絆」の掛け声に感じ続けた違和感の正体、その答えが学生さんたちの感性の中にありそうです。
合理性追求の企業社会の中にはその答えは見つかりません。
心静かに引用させていただきたいと思います。
***********************
石巻の記憶に「よき祈よ こもれ」 Tさん
石巻から戻った私の、この記録を書く筆は進まなかった。
3.11から2年が経過し、私は「がんばろう日本」のフレーズを聞き飽き始めていた。メディアを介して見る「被災地」の姿は、なだらかに整地された土地と綺麗に整えられた緑の芽吹く区画であった。
しかし、被災地の現状は多くの欺瞞に満ちていた。被災瓦礫はテレビカメラの目の届かない、給分浜(きゅうぶがはま)の入り江に堆く(うずたかく)積み上げられていた。マスコミのカメラの射程内、整地された石巻の中心部には、部外者が建てた「がんばろう石巻」と書かれた大きな看板があった。私はこのハリボテの看板だけを見て、復興は進んでいると思っていた。みせかけのものを信じ、聞こえの良い言葉ばかりに耳を傾けていた自分こそ、この欺瞞に加担している側だったのだということを同時に自覚した。そんな私が何を書くことができるだろうか、原稿用紙に向かって自問自答を繰り返した。
私は広島県の出身であり、原子爆弾の惨禍を身近に感じてきた。広島でも、今なお原爆ドームの付近にいくとガイガーカウンターの針は振り切れ、市内近郊の低山の中腹にはアメリカの組織ABCC(原爆傷害調査委員会)が基地を構え、原爆「実験」の経過観察を継続している。物理的「復興」を成し遂げ、傷は癒えたように見えても、根深いところで疼いている。
マルグリット・デュラスの映画「ヒロシマ・モナムール」は、アラン・レネ監督の、外部の人間(ここではフランス人)がどのようにして原爆を知ることができるのだろうか、という関心が撮影の発端となったという。今回の石巻のゼミ合宿で、外部の人間である私が、被災地を知ることができたのだろうか。ただ私が石巻に滞在したのはほんの3日であり、私のような外部の人間が被災地を語ること自体、おこがましいことであると感じる気持ちは、これを書いている今も強く感じている。
「がんばろう石巻」の大きな看板の前では、外部の人間が経営する焼きそばや花の屋台が賑わいをみせていた。「ヒロシマ・モナムール」の冒頭に描かれている広島平和記念式典の様子が思い出された。花電車が走り、盆踊りが繰り広げられ、出店が賑わう。原爆投下から数年後の平和記念式典はアメリカ側が主催したものであり、慰霊そっちのけでお祭りムードに満ちたものであった。「復興五輪」に浮かれ、「がんばろう日本」を連呼する現状によく似ている。被害を受けた人間の悲しみや痛みが外部の人間によって無駄な上塗りがなされ、実情が見えにくくなる構造。この構造は現代の被災地ではマスメディアの発達により、さらに複雑な様相を呈しているのではないだろうか。
「石巻で、ピースで写真を撮っている若い観光客が多い。彼らのことを、私は許すことができない」という安藤さん(石巻の漁師さん)の言葉で、平和祈念公園の様子が頭をよぎった。石巻同様にたくさんの人が亡くなった場所である。原爆ドームや原爆死没者慰霊碑の前には多くの観光客が訪れ、中にはピースで笑顔の祈念写真を撮る人たちも少なくない。私自身も原爆で祖父を亡くしているが、彼らを見ても怒りは湧いてこない。
安藤さんと私の間にあるのは「時間」の隔たりであろう。原爆投下から67年、3.11から2年。現在の広島は見事に戦後の「復興」を遂げた姿だとされている。しかし本当にそうなのだろうか。被災地で一つ私が感じたことは、人間の根底にある情念は変わることがない、ということである。
漁に出るたびに、行方不明の親族が「居てくれないかなあ」という気持ちで海に潜る、と呟いた安藤さんの目に、少し見覚えがあるような気がした。
宮島に「管絃祭」という伝統的な行事がある。夏の始めにあるこの行事は、厳島神社の御神体が瀬戸内を周遊するものである。河岸からゆっくりと此岸に近づいてくる御神体を載せた船に、竹西寛子は原爆で亡くなった人間の魂の往還を見て取った。夜の海に管絃の音が漂い、闇の向こうから篝火に照らされた船が現われる。今日でもこの祭りには多くの人が集まる。人々は無言で夜の静かな海を見つめる。小舟のかすかな灯りを見つめる広島の人々の目と、安藤さんの目は、同じものをとらえている気がしてならなかった。
多くを奪い去った悲しい過去の記憶を癒すことは非常に難しい。広島の例のようにどれほどの時間が経とうとも、それは人々の胸の内からは消え去らない。しかしその記憶を「継承」していくことこそ重要なことではないだろうか。
「ヒロシマ・モナムール」のフランス人の女性は、原爆の惨禍を彼女のヨーロッパでの第二次世界大戦の悲痛な記憶と重ね合わせ、自身の記憶の情念的な部分を介して広島の男性と心を通わせ、理解し合うことができた。
今回の合宿で石巻を訪問した際、内側にある広島の記憶と被災地の現状を重ねて反芻している自分がいた。当事者でない人間が被災地を理解することは難しく、またそれを試みること自体傲慢な考えであろう。しかし、自分自身の目で見て「知る」ことで、本当の記憶の継承がなされるのだと強く感じた。マスメディアを介さない、肉眼で見た石巻、被災地の姿を私は胸に焼き付けた。
石巻の記憶に「よき祈りよ こもれ。」
(2014年3月20日発行 慶応義塾大学文学部)
荻野安奈先生が書かれた本が縁となって、石巻の安藤さんと言う漁師さんをたずねて、
2013年9月-10月に「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」が行われ、70名の学生さんが参加されました。
その報告書を荻野安奈先生と関根謙先生よりいただき、ブログに掲載することを了承いただきました。(お二人の先生には終わってから声を掛けさせていただきました。)
震災の後、「がんばろう日本」「絆」の掛け声に感じ続けた違和感の正体、その答えが学生さんたちの感性の中にありそうです。
合理性追求の企業社会の中にはその答えは見つかりません。
心静かに引用させていただきたいと思います。
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石巻の記憶に「よき祈よ こもれ」 Tさん
石巻から戻った私の、この記録を書く筆は進まなかった。
3.11から2年が経過し、私は「がんばろう日本」のフレーズを聞き飽き始めていた。メディアを介して見る「被災地」の姿は、なだらかに整地された土地と綺麗に整えられた緑の芽吹く区画であった。
しかし、被災地の現状は多くの欺瞞に満ちていた。被災瓦礫はテレビカメラの目の届かない、給分浜(きゅうぶがはま)の入り江に堆く(うずたかく)積み上げられていた。マスコミのカメラの射程内、整地された石巻の中心部には、部外者が建てた「がんばろう石巻」と書かれた大きな看板があった。私はこのハリボテの看板だけを見て、復興は進んでいると思っていた。みせかけのものを信じ、聞こえの良い言葉ばかりに耳を傾けていた自分こそ、この欺瞞に加担している側だったのだということを同時に自覚した。そんな私が何を書くことができるだろうか、原稿用紙に向かって自問自答を繰り返した。
私は広島県の出身であり、原子爆弾の惨禍を身近に感じてきた。広島でも、今なお原爆ドームの付近にいくとガイガーカウンターの針は振り切れ、市内近郊の低山の中腹にはアメリカの組織ABCC(原爆傷害調査委員会)が基地を構え、原爆「実験」の経過観察を継続している。物理的「復興」を成し遂げ、傷は癒えたように見えても、根深いところで疼いている。
マルグリット・デュラスの映画「ヒロシマ・モナムール」は、アラン・レネ監督の、外部の人間(ここではフランス人)がどのようにして原爆を知ることができるのだろうか、という関心が撮影の発端となったという。今回の石巻のゼミ合宿で、外部の人間である私が、被災地を知ることができたのだろうか。ただ私が石巻に滞在したのはほんの3日であり、私のような外部の人間が被災地を語ること自体、おこがましいことであると感じる気持ちは、これを書いている今も強く感じている。
「がんばろう石巻」の大きな看板の前では、外部の人間が経営する焼きそばや花の屋台が賑わいをみせていた。「ヒロシマ・モナムール」の冒頭に描かれている広島平和記念式典の様子が思い出された。花電車が走り、盆踊りが繰り広げられ、出店が賑わう。原爆投下から数年後の平和記念式典はアメリカ側が主催したものであり、慰霊そっちのけでお祭りムードに満ちたものであった。「復興五輪」に浮かれ、「がんばろう日本」を連呼する現状によく似ている。被害を受けた人間の悲しみや痛みが外部の人間によって無駄な上塗りがなされ、実情が見えにくくなる構造。この構造は現代の被災地ではマスメディアの発達により、さらに複雑な様相を呈しているのではないだろうか。
「石巻で、ピースで写真を撮っている若い観光客が多い。彼らのことを、私は許すことができない」という安藤さん(石巻の漁師さん)の言葉で、平和祈念公園の様子が頭をよぎった。石巻同様にたくさんの人が亡くなった場所である。原爆ドームや原爆死没者慰霊碑の前には多くの観光客が訪れ、中にはピースで笑顔の祈念写真を撮る人たちも少なくない。私自身も原爆で祖父を亡くしているが、彼らを見ても怒りは湧いてこない。
安藤さんと私の間にあるのは「時間」の隔たりであろう。原爆投下から67年、3.11から2年。現在の広島は見事に戦後の「復興」を遂げた姿だとされている。しかし本当にそうなのだろうか。被災地で一つ私が感じたことは、人間の根底にある情念は変わることがない、ということである。
漁に出るたびに、行方不明の親族が「居てくれないかなあ」という気持ちで海に潜る、と呟いた安藤さんの目に、少し見覚えがあるような気がした。
宮島に「管絃祭」という伝統的な行事がある。夏の始めにあるこの行事は、厳島神社の御神体が瀬戸内を周遊するものである。河岸からゆっくりと此岸に近づいてくる御神体を載せた船に、竹西寛子は原爆で亡くなった人間の魂の往還を見て取った。夜の海に管絃の音が漂い、闇の向こうから篝火に照らされた船が現われる。今日でもこの祭りには多くの人が集まる。人々は無言で夜の静かな海を見つめる。小舟のかすかな灯りを見つめる広島の人々の目と、安藤さんの目は、同じものをとらえている気がしてならなかった。
多くを奪い去った悲しい過去の記憶を癒すことは非常に難しい。広島の例のようにどれほどの時間が経とうとも、それは人々の胸の内からは消え去らない。しかしその記憶を「継承」していくことこそ重要なことではないだろうか。
「ヒロシマ・モナムール」のフランス人の女性は、原爆の惨禍を彼女のヨーロッパでの第二次世界大戦の悲痛な記憶と重ね合わせ、自身の記憶の情念的な部分を介して広島の男性と心を通わせ、理解し合うことができた。
今回の合宿で石巻を訪問した際、内側にある広島の記憶と被災地の現状を重ねて反芻している自分がいた。当事者でない人間が被災地を理解することは難しく、またそれを試みること自体傲慢な考えであろう。しかし、自分自身の目で見て「知る」ことで、本当の記憶の継承がなされるのだと強く感じた。マスメディアを介さない、肉眼で見た石巻、被災地の姿を私は胸に焼き付けた。
石巻の記憶に「よき祈りよ こもれ。」
(2014年3月20日発行 慶応義塾大学文学部)