たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

母とお別れした年の暮れ

2017年08月26日 16時22分47秒 | 祈り
「2012年12月31日(月)

 2012年が終わろうとしている。スタバにいると全く実感がない。一週間前はクリスマス協奏曲を奏でていたのに、25日の夜になるとたちまちお正月へとスィッチ。デパートやメディアに踊らされているようで、どうにもついていけないし、好きになれない。なんとも不思議な国だ。それでも一応ガスレンジ周りと本棚のほこりのすごい所も掃除した。要らないもの、行方不明だったものがでてくるものだ。

 あとはひたすらデジタル化。けっこう疲れる。まだまだある。なかなか終わらないなあ。それでも減っているはずだ。少しずつだが、どこかで諦めて捨てられるようになった。いつか捨てなければならないのだ、今か、30年後か・・・。

 夜になると母のことを考えてしまい、落ち着かなくなる。色々思い巡れば悔やみ切れない思いがよみがえってくる。でも、もう自分を責めるのはよそう。人の営みとは、なんとも理屈では言いようのない、ゴタゴタとした色んなものがゴチャゴチャに混ざり合っているものなのだ。
これからどう生きていこう。
辛くなったらいつでも逃げられる、そんな立ち位置で人の営みに関わっていくのがいいのかな・・・。ひとつひとつは何でもないことのような積み重ねで、日々の営みは続いていく。

 子供に自死された人に希望をもってほしいなどと思うのは酷だよな。母の思いを想像力ではかっても私にはわからない。受け取めきれない試練にさらされながら精一杯生きた。どうしてそうなったのか、どこにも答えはないので、それを追い求めてもどうにもならない。私は私の立ち位置で幸せなる努力をすること、それだけだ、それでいいんだ。」


 介護保険制度が少しずつ充実してきて、包括支援センターなる拠点が地域にできて、看護師やワーカーがいて、介護サービスの種類もふえてきたのかな。でも本人が望まない時、たくさんの専門職と呼ばれる人たちが関わっていくことが、介護サービスを導入していくことが本当に当事者にとって正解なのかどうか、とりわけ身体ではなく精神の場合、わからない。ヘルパーをいれようとしたら母は拒絶した。最後までこの家にいたいとがんばった、「お母ちゃん、人に迷惑かけんようにがんばっとるで」。最後に母と会った時の言葉が今も甦る。自分はわかっていなかったと亡くなった後で気づいた。母の存在が負担でしかないような、いつしかそんな思いを捉われるようになっていた自分がいた。母は母の世界のなかで一生懸命だった。そのことに全く気づいていなかった。母にとっていちばんの幸せは、静かに今までどおりに家の中で亡くなった娘を思いながら過ごすことだった。自分の母が統合失調だったことも、妹が自死したことも、ずっと自分を責めて苦しみ続けてきたことも、今は遠いことのように思える。この日記を書いていた時は全く予想だにしなかったクソな大会社に使い捨てにされて望まぬ闘いになり、ボロボロにすり減ったのですごく遠いことになった。今日かかりつけ医でここ一週間の仕事のことを話したら、「人助けができてよかったなじゃない、いいことあるよ」って言われましたが、自分のしたことは本当に人助けになったのか、わたしはなにかできたのか、どこにも正解のない答えを求め続けているわたしがいます。

 「祈り」のカテゴリーで久しぶりに書きました。書かずにはいられませんでした。昨日からのもやもやした気持ちがこうしてブログに書くことで成仏できるといいな。




スカイステージカフェより(2)

2017年08月26日 15時35分52秒 | 宝塚
 早いもので期間限定の丸の内スカイステージカフェは明日の花組東京宝塚劇場の千穐楽と共におしまい。ずっとやってほしいな、集客見込めると思うのですが無理ですかね。夢に包まれた空間、観劇後花組エリザベートのパネルの前でお茶いただけるなんて、夢の続きにひたっているような感覚で幸せでしたよ。花組公演と共に歩んできた長い8月、決してあっという間ではなくきついです。あと一週間後の自分はまた失業者になっているのが嘘のようです。とくにこの一週間ほどは猛暑復活でいろいろとざわつき振り回され、わたし自分の気持ちもざわつき疲れているはずなのにあまり眠れずつらかったです。ようやく今日8時間睡眠。昨日の自分の気持ちの揺れ動きをまだ整理しきれていません。日曜日の花組公演観劇があったからなんとか生き延びることができた一週間でした。生の舞台をみるというアナログな行為、映像やライブビューイングがあってもやっぱり生オケでその場の空気を感じながら観劇するひとときに勝るものはありません。

 昨夜のファー〇ト〇ッチンのアルバイト店員のマニュアル対応は、疲れている心身をひきずって甘いものをとって息抜きしたかったわたしにはこたえました。このブログを書き終えようとしていたところを邪魔されて集中力がきれてしまったのでなおのこといらっときてしまいました。白玉クリームぜんざいとココアをいただいたら喉が渇いてきたので、緑茶が入っていたペットボトルに就労場所の冷水器で水をいれていたのを飲んだだけだったのですが、持ち込みはご遠慮いただいています、って言われてしまいました。外観は緑茶のペットボトルだし、それをトレーの上に乗せてしまったのがいけなかったかな。すぐバッグに戻せばよかった。ああ面倒くさい、お持ち込みってとがめられるほどのことですか、っていらだったわたしは間違っていますかね。言い方が全くあたたかみのないマニュアル通りの機械仕掛け人形みたいで気持ち悪かったすよ、人と深くかかわることを終日やって疲れ切っていたからなおさらそんな風に感じてしまったのかもしれません。なんかね、マクドナルドが日本に入ってきてマクドナルド式のカフェが増えて、アメリカ式のドライになってしまって、お互い様の甘えが許されない日本になってしまったなとあらためて思いました。感じ方が極端すぎますかね。人は機械ではないので人と人との営みはマニュアル通りにいくものではなく、答えがあるものでもなく、もやもや、もやもや、どんなに機械化、デジタル化が進んでもそういうものだと思います。

 観劇バンザイ、宝塚バンザイ、明日は花組ライブビューイング。チケット引き換えなくっちゃね。

















KITTEビル内旧郵便局長室からみた東京駅。