「7月3日
病的な状態は、あまりひどく気にしないでいると、ひとりでに消え去ることがよくある。それよりももっとしばしば、病弱者でありながらも、十分治療を受けられる境遇にいないために、かえって多年にわたって彼等の義務を忠実に、よろこんで果している人びとがいるのである。これに反して、各地の療養所にたえず滞在し、無益な、心に慰めのない生活を送っている人たちもいる。このような人たちの多くは、ただ何かなすべきか務めを教えてやりさえすれば、救われるであろう。つねに病気がちな人びとに実際に欠けているのは、むしろ本当の義務と人生の任務にほかならぬという場合が、かなり多い。彼らの体力に十分かなった義務や任務を課してやれば、どんな治療や安静や看護によるよりも、ずっと健康になれるだろう。御者ならだれでも、自分の馬にはこうすべきだということが分かっている。ところが、病人を指導すべきはずの多くの医師や看護人がそれを知らない。
とりわけ健康に役立つのは、多くの場合、正しい、真実の愛である。愛というものは、当然いやしいエゴイズムを否定するからである。しかしこの不思議な薬は、どこの街でも売ってはいないし、また、だれでも自分で用いることができるわけでもない。それの下らぬ真似ごとで満足している者には、特に扱いにくい薬である。」
「7月5日
神の霊の存在については、たとえ他に実証的な証拠がなくても、次の事実はやはりその証拠といえるであろう。すなわち、われわれ自身が精神と意志をつくして努力しても、もし神がそれを拒まれるならば、われわれは神との結びつきを回復することができないし、また「熱心な信心」によっても、心配や悲しみをのがれることができないのである。これに反して、神の霊がしばしば思いがけない仕方で訪れてきて、その生命と喜びとをもってわれわれの全存在を満たし、一瞬のうちにすべての重荷をわれわれの心から取り下ることがありうつということである。」
「7月6日
あなたは一体何を欲するか。本当に落着いたときに、あなた自身にそれをたずね、そして正直に答えなさい。あなたは、働くこともいらず心配もないような、朝から晩まで享楽三昧の豪奢な生活を-もちろんそれを享受するだけの欲望と力とをつねに備えてのことだが-、たとえばマホメット教徒の空想するような天国に近いものを、願うであろうか。しかし、そんな生活は、現代の分明社会では、どこにももはや存在しないだろう。とにかく、あなたの境遇では、とうてい望めないものだろう。そんならむしろ仕事をもった生活を、しかし確実な導きのうちに、ひどい心配もなく、ほとんど変りのない心の晴やかさと落着きをもって続けることのできる生活を、なぜ欲しないのか。このような生活ならば、だれでも持つことができる。ただ、それを断固として欲し、そして与えられたその道を進まねばならないだけである。
世の多くの人びとは、自分が何を欲するかを、まるで知らない。また、それをよく考えることもほとんどしない。反対に、少数の人びとのなかのある者は、できもしないことを欲して、いたずらに力を消耗している。また、そうでない者も、その意欲がたえず動揺して、そのために何ごとをもなし遂げえない。しかし、可能なこと、つまり、自分の力と現実の世界秩序とに相応したことを、確固として辛抱づよく欲する人びとは、つねにその目的を達成してきた。
なお十分注意してもらいたいのは、われわれの意志は段階的なものであって、人生の全段階をほしいままに飛び越えるものでは決してないということである。人生の下のクラスにありながら、上のクラスに属することを欲してはならない。そうすると、元来下級でなすべきことを十分みたさないことになるからだ。
そこで、例えば、あなたが病気であるとしても、もし癒えることが神のみ心であれば、そのための正しい道を見出そうと願いなさい。だが神のみ心がそうでなければ、むしろ病気に耐え忍ぶ道をみつけようと欲しなさい。そのようにして健康になるがよい。さもなければ、病気の状態に順応さない。そのために、あなたは、かなり長い間、あなたの全意志力をささげねばならないだろう。そのいずれかが達せられたならば、その次にあなたの眼前にはっきり現われてくる、あなたの願望の別の課題にとりかかりなさい。こうすればあなたは進歩できるが、さもないとそれができない。」
「7月8日
われわれが自己を改善しようと努力する場合に、あらゆる悪を避けようとするよりも、すべて醜いものや卑俗なものを避けようと決心する方が、直ちに、もっと効果があがることが多い。なぜなら、後のやり方のほうがわれわれの力にかなうからである。
真に美しいものに馴れ親しむこと、それも生活の欲求として、または自分の性格上の特質としてそうすることは、若い人を人生に出発させるにあたってもたせてやることのできるこの上ない護身用の武器のひとつである。」
「7月10日
神のそば近くにあることこそ、本当に人間の幸福の真髄であるが、もしそれを欲するならば、いくらかの悲しみをも願わねばならない。というのは、人生の経験を積んだ人ならだれでも知っているように、他のいかなる時よりも、また、どんな方法でよりも、深い悲しみの時に、われわれは神に一層近づくからである。 ダンテ『新曲』天国篇第7歌58-60行。」
「7月15日
信仰とは、神へ向ってひたすら努力することではなく、神に己れをゆだねることである。つまり、われわれが神の門をたたくのではなく、むしろ神がわれわれの門をたたかれるので、われわれは神にそれを開かねばならないのである。そうすれば、万事が順を追うてまったくひとりでに行われる。まず、青々とした畑、つぎに、実りを約束する穂、やがて、実った見事な穀物、そして生涯を無駄でなく、立派に過ごしたあとで、最後に安息のための収穫。イザヤ書45の2-5、ヨハネ黙示禄3の20、ルカによる福音書12の36。」
「7月17日
今日きわめてひろくはびこっている神経衰弱症について、その最も厄介な点は、それがともすれば当人の意志力を弱めるばかりでなくて、道徳的判断力をも退廃させることである。そのためこの病気にかかった者は、大して嫌悪を感じないで醜悪なことを、考えたり行ったりすることができるのである。
やがてこれはついに、イギリス人が「道徳的狂気」と呼ぶ程度にまで進むが、不幸にも現代の「美」文学の少なからぬ部分がこれにおかされている。今でも、このような生活をいとなむ者は、時にはありふれた狂気に終ったりする。それでもこの唯物主義文学の大洪水はなおしばらくは隆盛を誇り、それがやがて減退してしまったあとで、ようやく多くの人びとは、救いの神が現われる山に向って、ふたたび眼(まなこ)をあげるであろう。
しかしそのあいだも、少なくとも各個人は、もしこの病気にかかったと感じたならば、文学や美術や社交界に現われる神経病的なものとの接触を慎重に避けるべきであろう。神経症的不健康は(健康と同じように)伝染するからである。この病気に対する外的な手段としては、正しい十分な量の仕事を持つことと、よい家庭的環境にあることとが最上の護りである。内的な方法としては、あらゆる健全な生活の源である神への心からなる帰依が大切である。
まさにその通りだから、神との関係はほんの少しでも空想的な要素を含んでいてはならない。少なくとも、たとえば宗教小説によく見受けるような敬虔と官能的空想との混合物が入りこんではいけない。これは夢をみずからごまかすのだから、この病気の場合にはとりわけ有害である ダンテ『神曲』地獄篇第三歌103-108行、第五歌34-39行。
とにかく、神経衰弱症の原因は、一部は遺伝的であり、一部は現代世界の環境全体の中にあるが、この時代病に対して、三つの肉体的手段と二つの精神的方法とがあり、それらが共同して作用しなければならない。まず、睡眠と、新鮮な空気と、肉食を少なくしてアルコールを全然採らないよい営養。つぎに、固い信仰と、地上における神の国のための仕事がそれである。この他に有効な治療法は存しない。それに、これらの方法は、必要とあれば、家庭でも用うることができる。」
「7月18日
最もよい現代詩であっても、病人や悩める人のためにそれらを果すところは、あまりにも僅かである。彼らはたいていこれらの詩では慰められることができない。特にドイツにおいてはそうだが、すでに今日の世代は、全く人に満足を与えないリアリズムの文学から離れて、
真正な詩の世界であるあの明るい崇高さと究めつくせぬ深遠さをもつ文学へもどりたいと本能的に憧れている。単なる「象徴主義」の詩によって、このような純粋な詩の代りをさせることは不可能である。同じように、国家生活の方面でも、文学におけるリアリズムの詩に対応するところの「実利政治」からのがれて、真理と正義とによる真の生活に帰りたいと願っている。しかし、純粋な真理や真の偉大さに対する熱情を抱くような無邪気と童心とを、一旦これを失ったのちにふたたび取り戻すのは、決して容易ではない。かつてわれわれはこのような無邪気と童心とを、がめつい利得や生の享楽とひき換えに、あるいは外国の実例を愚かにも真似して、軽々しく棄ててしまった。これを取りかえすためには、多くの場合、不幸をくぐり抜けることが必要である。ただ不幸な体験することのみが、偽りの詩や哲学の、さらには誤った政治の導く結果を、そして、それらによって損なわれた人間の姿を、手にとるように明瞭に認識させるものである。詩篇79の10-12。」
「7月22日
しかしながら、悲しむべきは、現代の大多数の人にとって、この喜びがただ働くことによってのみ与えられ、他に喜びのわき出るいかなる源泉も許されないことである。次の二つとも正しいとはいえない。すなわち、まず、働くことなしに地上の幸福を求めることである。これはおよそ愚の骨頂だからである。つぎに正しくないのは、労働によってのみ幸福を見出さねばならぬということである。これは結局、働くように仕込まれ、強制的にそうさせられる家畜の生活にほかならない。どんなによく扱われている場合も、あの駄獣たちの悲しげな眼をよく見るがよい。その上で、そうあることがあなたやあなたの家族の運命としてよいかどうかを決めなさい。同胞教会讃美歌1035番、672番。」
「7月24日
われわれの内的生活がある地点にまで到達すると、自分が全力を尽しても結局無効だということをあまりに強く信じこみ、そのため誤った静寂主義や宿命論におちいる大きな危険に晒されることがある。
われわれは何をなすべきか、またそれをいかになすかについて、決して無頓着であってはならない。いや、むしろわれわれはすべての勤勉と才能とを真剣に活用しなくてはならない。ただい、野心や所有欲からではなくて、義務感と神への愛から、それをしなければならない。そして、事の成否は、神に委ねるべきである。
そうすれば、何も吹聴などしなくても、万事がうまくはかどる。それでもなお犯す外的失敗でさえ、われわれに有益なものに変わる。もしこのことが信じられないなら、自分でたましてみるがよい。
どんな人の生活でも、たとえ預言者や使途の場合でも、時ろい、深い意気消沈におそわれずにはすまない。「主よ、今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。これは、きっとだれでもその生涯の暗い時に口にしてきた言葉である。このような無気力がどこから来るのか、われわれは多くの場合それを知らない。けれども、これに屈服してはならないことだけは、いつも知っている。この世に神の国を築くための戦いにおいて降伏する者は、つねに裏切り者である。あなたの義務を行いなさい、できるならば楽しい気分で。できなければ、そうした気分なしでもよい。この方が一層はむべきことであり、一層大きな実りがある。ダンテ『神曲』地獄篇第9歌7-10行。」
「7月25日
生の享楽を根本的に断念することは、初めのうち実に困難なものである。鈍感におちいらないでこれを堪えぬきには、享楽を断念して空虚になった心に、神への愛を迎え入れ、福音書のいわゆる聖霊についてみずから体験するほかはない。そうでない場合には、ひどい逆転が起りがちである。マタイによる福音書12の43-45。」
「7月26日
神から遠ざかることは、われわれが出会う唯一の大きな不幸である。しかし、これはわれわれの意志なしには決して起りえない。
幸福な生活と憂いにみちた生活とのちがいが生じるのは、多少とも偉大な勇気ある精神的方面がどんな外的状況のもとでも立派に保たれるか保たれないかによってのみ決まる。このことは、すでにちがった言葉で幾度となく言われてきたことであり、それはあながち間違っているとばかりは言えない。」
「7月28日
幸福と名誉とはいわば女性である。彼女たちは、彼女たちを追いかけないで、むしろいくらか冷淡に扱う人を求める。
われわれは、本当にできるだけのことを、人びとのためにしなければならない。とにかく、いつでも、そしてだれに対しても一様に、親切で好意的でなくてはならない。だが、決して自分自身のために彼らを求めたり、彼らに多くを要求したり、あるいは期待すべきではない。こうすれば、人生の大きな苦難を最もたやすくのがれることができるが、ただし、また大きな喜びをのがすことにもなろう。あなたが、大きな喜びを得たいと思うなら、もちろん、全くこの通りに行動することはできない。もっとも、だれでもそういう喜びを得るにふさわしいとは限らない。」
「7月31日
「神のために」という言葉は、一般には、もちろん単なるきまり文句にすぎない。けれども、本当に神のために行うすべてのことには祝福と成就とが与えられ、これに反して、エゴイズムや、利己的な目的を兼ねたり裏にかくした行いには、神ののろいが下される。もっとも、「実利主義」しか信じない時代においては、幾度も苦しい経験をなめたのちでなければ、われわれはこの真理にしん底から気づき、それに従って行動することができない。しかしそうなった場合には、この経験のなかから、真理を洞察するという直接の利益のほかに、なお神への一層堅固な信仰が生れてくる。なぜなら、このようなことは、偶然や人間の恣意に左右されない一つの世界秩序があってのみ、可能なことであるからだ。
安逸と享楽とをなによりもたっとぶ者は、「神の子たちの栄光の自由」(ローマ人への手紙8の21)を受けるにふさわしくない。なお創世記49の15。」
(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文庫、196~216頁より)