「「なあに、ヘレン?」私は彼女に手を握らせたままで言った。ヘレンは私の指を暖めようと、やさしくさすりながら語りはじめた。
「たとえこの世界中の人があなたを嫌っても、あなたを悪い子と信じても、あなた自身の良心があなたを正しいと認めて罪を解くならば、あなたはお友だちがないなんてことないわ」(ヘレン)
「ええ。あたしも自分を正しいと思わなければならないことはわかるわ。でも、あたしだけが思ったんのじゃ駄目だわ。他の人があたしを愛してくれないなら、あたしは死んだほうがましよー独りぼっちにされて、嫌われているなんて我慢ができないわ、ヘレン。あのねえ、あたしはあなたやテンプル先生や、その他あたしがほんとうに愛している人に真実に愛されるためなら、あたし喜んで自分の腕の骨を折らせるし、牝牛にあたしを突かせてもいいし、足を蹴りあげる馬のうしろに立って、あたしの胸をー」(ジェイン)
「ジェイン、静かに!あなたは人間の愛というものを、あんまり深く考えすぎるわ。あんまり一徹だわ、あんまり烈しいわ。あなたの体をお創りになって、それに生命を与えて下さった神様のお手は、かよわいあなたの肉体以外に、いいえ、あなたと同じにかよわい人たちの肉体以外に、頼りになるものをあたしたちにお作りになって下さったのよ。この地球以外に、この人類の他に、人の目に見えない世界、霊魂の世界があるの。その席はあたしたちの周りにあるのよ、なぜなら、それは、至るところにあるからですの。そして天使たちがあたしらを見守っていて下さるのよ。天使は神様からあたしたちを守るように命じられているからなの。そして、たとえあたしたちが、苦しみと辱かしめのうちに死んでも、嘲りが四方からあたしたちを責めても、憎しみがあたしたちを圧し潰しても、天使さまはちゃんとあたしたちの苦しみを見ていて、あたしたちの潔白なことをわかって下さるのよ。(あたしたちが潔白でさえあればね。ちょうどブロクルハーストさんがリード夫人から聞いたことを受け売りして、根拠もなく大げさに報告したあの濡衣をあなたが着る覚えがないのを、あたしがちゃんとわかっているとおなじにね。あたしあなたの燃えるような眼や翳りのない顔を見ると、あなたが誠実なひとだってことがわかるのよ。)だから神様はどっさりご褒美を授けようと肉体から魂が離れるのばかりお待ちになっていらっしゃるのよ。それなのに、なぜあたしたちは悲しみに沈まなければならないの、人の命は、はかないもの、死が幸福へのー栄光への門であるということがこんなにはっきりしているのに?」(ヘレン)
私は何も言わなかった。ヘレンは私の心をおちつかせた。だが、ヘレンの与えてくれたおちつきのうちに、なんとも言えぬ悲しみがこもっていた。彼女が語った時私の心は悲しみに打たれた。しかしそれが何故そう感ずるのか私には言い表わせなかった。そして語りおわると彼女の息づかいがせわしくなって短い咳をした時、私は彼女に漠然とした不安を感じて自分の悲しみを一時忘れてしまった。」
(シャーロット・ブロンテ作、遠藤寿子訳『ジェイン・エア』(上巻)、1957年4月26日第1刷発行、1978年12月10日第19刷発行、岩波文庫、112-113頁より)