あかない日記

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小説家 森鴎外 7 団子坂

2022-08-05 | 人物忌

 

 団子坂上 坂下方面 右へは「藪下通り」 

 

団子坂は文京区千駄木2丁目と
  3丁目境を東へ下る坂

団子坂の説明文には

「団子坂」の名前の由来は、
坂近く団子屋があったからともいい、

悪路のため転ぶと団子のように
なることからといわれる。


また「御府内備考」に七面堂が
坂下にあるとの記事があり、

ここから「七面坂」の名が生まれた。
「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が
望見できたためと伝えられている。

幕末から明治末にかけて菊人形の
小屋が並び、明治40年頃が
最盛期であった。

また、坂上には森鴎外、夏目漱石、
高村光太郎が居住していた。

  文京区教育委員会  」

 

森鴎外「青年」(1911年)には
団子坂界隈の様子がある。

「壱  

四辻(よつつじ)を右へ坂を降りると
右も左も菊細工の小屋である。

国の芝居の木戸番のように、
高い台の上に胡坐(あぐら)をかいた、
人買か巾着切りのような男が、
どの小屋の前にもいて、
手に手に絵番附のようなものを
持っているのを、
往来の人に押し附けるようにして、
うるさく見物を勧める。

まだ朝早いので、通る人が少い処へ、
純一が通り掛かったのだから、
道の両側から純一一人を
的(あて)にして勧めるのである。

外から見えるようにしてある人形を
見ようと思っても、
純一は足を留めて見ることが出来ない。

そこで覚えず足を早めて通り抜けて、
右手の広い町へ曲った。」

「二十一

午後二時にはまだなっていなかった。
大学の制服を着ている大村と一しょに、
純一は初音町の下宿を出て、
団子坂の通へ曲った。

 門(かど)ごとに立てた竹に
松の枝を結び添えて、
横に一筋の注連縄(しめなわ)が
引いてある。

酒屋や青物屋の賑(にぎ)やかな店に
交って、商売柄でか、綺麗(きれい)に
障子を張った表具屋の、
ひっそりした家もある。

どれを見ても、年の改まる用意に、
幾らかの潤飾を加えて、
店に立ち働いている人さえ、
常に無い活気を帯びている。」


団子坂は 多くの文芸作品に登場している。

 ・二葉亭四迷「浮雲」(1891年)
 ・江戸川乱歩「D坂殺人事件」(1925年)

 

新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
‘資料・文京ふるさと歴史館

 

団子坂は 菊人形で有名であった。
菊で飾った人形で 芝居や伝承の
名場面を見せる見世物。

江戸時代に巣鴨・染井の植木職人が
菊細工としてお寺で参拝客に見せていたが、

明治になって、団子坂に移ってから
たくさんの見物客を集めるようになり

秋になると団子坂の両側には
菊人形の小屋が 20軒以上立ち並んだ。

最盛期は 明治20~30年代で 
明治44年が最後の興業になった。

 

・夏目漱石「三四郎」(1908年)
「一行は左の小屋へ這入った。
曽我の討入りがある。

五郎も十郎も頼朝もみな平等に
菊の着物を着ている。

但し顔や手足は悉く木彫りである。」


・正岡子規
 『自雷也もがまも枯れたり団子坂』

 と団子坂の菊人形の様子を詠んでいる。

団子坂下近くにある 
せんべい屋「菊見せんべい」

創業は1875(M8)年 
屋号のとおり菊人形見物の土産であった。

 



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