(新潮文庫)
鴎外と漱石
漱石は 鴎外より5歳年下であるが
作家活動は わずか10年で
鴎外より早く
1916(T5)年に 亡くなっている。
鴎外はドイツ 漱石はイギリスにと
ともに海外留学体験が 共通点であり
その体験が 作品になり
同時代を生きた作家である。
また 1896(M29)年 正月の 3日
正岡子規の子規庵にて 開かれた句会で
鴎外(34歳)と漱石(29歳)は
初めて出会っている。
*このときの漱石は 松山中学の教師で
前年12月 中根鏡子との婚約のため
上京していた。
漱石が 執筆活動に入ったとき
鴎外は すでに大家の作家であり
鴎外の存在は 大いに影響があった。
著書の贈答や年賀状など
書簡のやり取りを続けるなど
親交が少なからずあり、
1910(M43)年
慶應義塾大学文学科顧問の鴎外が
漱石に 教授就任を打診したが
漱石は 辞退している。
「漱石は軍人、官僚が嫌いでした。
鴎外を敬して遠ざけていたのでしょう」と
漱石の長女筆子の娘婿の
半藤一利は 記している。
1916(T5)年12月12日
漱石の葬儀(青山斎場)にも
参列したという。
*芥川龍之介の「葬儀記」には
その記は見当たらない。
鴎外は「夏目漱石論」を
1910(M43)年に
箇条書きで記している。要約すると
1 漱石の今の文壇の地位は
力量からして当然
2 二度ばかり逢ったが立派な紳士
3 門下生と云うような人物
4 あまり金持ちではないようだ。
5 漱石の家庭での主人振りは分からない。
6 党派的野心はないようだ。
7 朝日新聞に拠れる態度は
一種決まった調子である。
8 漱石の本は少しばかり読んだが
創作家の技量は立派と認める。
9 創作作家としての技量は
もっと沢山詠まなくては判断できない。
10 漱石の長所と短所は
読んだ限りでは長所が目につき
短所は目につかない。
そして鴎外は
漱石の「三四郎」(1908年)に
影響されて書いた
「青年」(1911年)がある。
「青年」六に
漱石と鴎外の関係らしき節がある。
少々長いが引用する。
「話題に上っているのは、
今夜演説に来る拊石である。
老成らしい一人(いちにん)が云う。
あれはとにかく
芸術家として成功している。
成功といっても一時世間を動かした
という側でいうのではない。
文芸史上の意義でいうのである。
それに学殖がある。
短篇集なんぞの中には、
西洋の事を書いて、
西洋人が書いたとしきゃ
思われないようなのがあると云う。
そうすると、さっき声高に
話していた男が、こう云う。
学問や特別知識は何の価値もない。
芸術家として成功しているとは、
旨く人形を列(なら)べて、
踊らせているような処を
言うのではあるまいか。
その成功が嫌(いや)だ。
纏(まと)まっているのが嫌だ。
人形を勝手に踊らせていて、
エゴイストらしい自己が物蔭に隠れて、
見物の面白がるのを
冷笑しているように思われる。
それをライフとアアトが
別々になっているというのだと云う。
こう云っている男は
近眼目がねを掛けた
痩男(やせおとこ)で、
柄にない大きな声を出すのである。
傍(そば)から遠慮げに
喙(くちばし)を容れた男がある。
「それでも教員を
罷(や)めたのなんぞは、
生活を芸術に一致させようと
したのではなかろうか」
「分かるもんか」
目金(めがね)の男は一言で排斥した。
今まで黙っている
一人の怜悧(れいり)らしい男が、
遠慮げな男を顧みて、こう云った。
「しかし教員を罷めただけでも、
鴎村なんぞのように、
役人をしているのに比べて見ると、
余程芸術家らしいかも知れないね」
話題は拊石から鴎村に移った。
純一は拊石の物などは、
多少興味を持って読んだことがあるが、
鴎村の物では、アンデルセンの
飜訳(ほんやく)だけを見て、
こんなつまらない作を、
よくも暇潰(ひまつぶ)しに
訳したものだと思ったきり、
この人に対して
何の興味をも持っていないから、
会話に耳を傾けないで、
独りで勝手な事を思っていた。
会話はいよいよ栄(さか)えて、
笑声(わらいごえ)が
雑(まじ)って来る。」
ここに登場する
「拊石」は 夏目漱石がモデルであり
「鴎村」は 鴎外自身
鴎外が漱石に対する思いがうかがわれる。
参考:「中央公論Adagio・16号 森鴎外と白山をあるく」
東京大学「鴎外の書斎から・資料解説」
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