右手奥に聖ヨハネ教会が見える。
大聖堂広場の南に
「ピリエス通り」が
市庁舎広場に向かって延び
ヴィリニュスのメインストリートになっている。
敷き詰められた石畳が印象的だ。
“ピリエス”とは、「城」の意味で
古くから城の門前町として栄えた通り。
周辺には、ヴィリニュス大学や聖ヨハネ教会、
聖アンナ教会が、また食事処や、
アイスクリームを売っている店があり
観光客で賑わっている。
右手奥に聖ヨハネ教会が見える。
大聖堂広場の南に
「ピリエス通り」が
市庁舎広場に向かって延び
ヴィリニュスのメインストリートになっている。
敷き詰められた石畳が印象的だ。
“ピリエス”とは、「城」の意味で
古くから城の門前町として栄えた通り。
周辺には、ヴィリニュス大学や聖ヨハネ教会、
聖アンナ教会が、また食事処や、
アイスクリームを売っている店があり
観光客で賑わっている。
背景はゲティミナス城
大聖堂の北側、緑豊かな公園の中に
赤い屋根の「国立博物館」が見える。
かつては18世紀に建設された
細長い武器庫であったが
現在は膨大な資料を収めている博物館。
中世に大発展したリトアニア大公時代から
苦難の19世紀までの歴史が
順を追って展示されているという。
また 生活用品や手工芸品などの
民俗資料をも集めた展示も豊富で、
特に民家の内部を再現した一角は見どころとのこと。
博物館の前には、初代リトアニア大公であり、
唯一のリトアニア国王である、
ミンダガウス王の像が置かれている。
ネリス川側から丘の上に建つ「ゲディミナス城」を望む。
手前の建物は「国立博物館」
丘の麓にある「王宮」は、
「下の城」といわれるが
王宮の東側の丘にある
「ゲディミナス城」は
「上の城」と呼ばれている。
14世紀、ゲディミナス(在位1316-1341年)が、
トラカイからヴィリニュスに遷都した際に、
丘の上に、木造のゲディミナス城を築いた。(1323年)
ハンザの商人や職人を招き入れ、
東西貿易の中継地とて街を発展させた。
19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊された。
丘の上には、周囲約320mの城壁跡が残り
中庭には教会や複数の建築物が
あったと考えられているが、
1409年にレンガ造りの要塞に改築した一部、
監視塔のみが残っている。
丘の上までは、徒歩または
ケーブルカーで登ることができ、
新市街と旧市街が一望できる。
大型クレーンが見えるが
丘の法面を補修中のようだ。
ピリエス通りから見たゲディミナス城
大聖堂の東隣に 豪華なルネッサンス様式の
リトアニア大公の宮殿がある。
15世紀に建てられ、4世紀にわたって、
代々のリトアニア大公が住んだ白亜の宮殿であり
国の政治・外交・文化の中心だった。
しかし、19世紀初めにロシア帝政政権の命令で
取り壊されてしまい長い間公園となっていた。
リトアニアの独立後、象徴的イベントとして
2002年に再建が始まり、2013年に完成した。
現在、宮殿の一部は博物館として開放されており、
古代遺跡や出土品を通し宮殿の歴史と建築の発展を、
ホールでは後期ゴシック様式からルネッサンス様式への
建築スタイルの変遷が展示されている。
広場の一角に1996年に設置された
「ゲディミナス大公像」がある。
リトアニア大公であったゲディミナスは,
ヴィリニャ川とネリス川に挟まれた谷へ狩猟に来た時、
道に迷い野営せざるを得なくなり、
その晩、唸り声を上げている100頭の鉄の狼の夢を見て、
「鉄の狼のように強くなる。
そして,唸り声は街の反映を意味する。」と思いう。
ゲディミナスは,これをお告だと捉え、
ここに街をつくることにしたという。
この伝説に沿って銅像が建立されたとのこと。
この像 大公が馬を降りて、剣を抜いている姿だが
雄姿となると乗馬している銅像が普通だが
これは珍しい。
大聖堂の最大の見どころは
リトアニア大公国の王子が
1484年に25歳で早世し安置された
「カジミエル礼拝堂」。
大理石と砂岩で造られ、壁画は8体の王の像、
漆喰彫刻、フレスコ画などで飾られている。
正面祭壇にあるカジミエルの聖画には
右手が 2つ描かれているが、
伝説では画家が彼を描いた際に
右手を書き直そうと何度消しても
再び現れたことから
2つとも描くことにしたという、
両側の壁には
“カジミエルの奇跡” を描いたフレスコ画がある。
左は彼の死後120年後に開棺したところ
全く無傷の状態であった奇蹟、
右はウルスラという名の若い娘の死後そ
の父親がカジミエルの棺に祈ると娘が復活したという
奇跡を描いている。
左側壁のカジミエルの奇跡
ヴィリニュス大聖堂は、13世紀半ば
リトアニアの建国者ミンダウガス大公が、
十字軍騎士団の圧力から逃れるため、
キリスト教に改宗した際に建てた
教会が起源となっている。
1263年 王が亡くなった後に、
ヴィリニュスにもともとあった
自然崇拝の聖地に戻されたが、
すぐにキリスト教化され 再度教会が建てられた。
その後、戦禍などで幾度も増改築がされ、
15世紀にゴシック様式、
16世紀には ルネサンス様式になり、
17世紀バロック様式で 再建されます。
そして、1783年に完成、
現在見られる 6本のドーリア式円柱をもつ
新古典主義様式の姿となった。
更に 2006~2008年に大改装された。
屋上に立つ 3つの彫像は、
右(南)の聖カジミエルがリトアニアを象徴し、
左(北)の聖スタニスラフがポーランドを象徴し、
中央の聖へレナが 十字架を抱いている。
この3体 ソ連領だった 1950年に撤去されたが、
1997年に復元された。
ヴィリニュス大聖堂の前に、
高さ53mの鐘塔が 聳えている。
鐘塔の下層部分は、13世紀の城壁の塔の一部で、
ヴィリニュスで 最も古い建造物の一つ。
1520年代に、2つの八角形の上層部分を加えて鐘塔になり、
10個の鐘が 架けられているそうだ。
また、今まで見てきた聖堂と鐘塔は 1対形だったが
ここは分離型になっているのは 珍しいが
ギリシア神殿に似た大聖堂と マッチして印象的だ。
聖ペトロ教会の見学を終え、旧市内の中心地
「大聖堂広場」(カテドゥロス広場)へ
この広場 大聖堂の前の一角に
両足の跡のプレートが埋め込まれている。
1989年8月23日、
この地からラトビア首都・リーガ、
さらにエストニア首都・タリンへと3つの国を、
総距離600㎞の“バルトの道”を
約200万人の人々が手を繋ぎ、
バルト三国の一体感を示す「人間の鎖」として、
バルト三国のソビエト連邦からの独立を世界に訴えた。
これをこれにより 1990年リトアニアの独立回復宣言、
1991年に、ソビエト国家評議会は三国の独立を承認した。
また、「STEBUKLAS」(奇蹟)の
プレートが敷石の一枚にあった。
なお、この上に立って、願いを唱え、
廻れば願いが叶うと言われている。
教会内部ある2000以上もの漆喰の彫像や装飾は
一つとして同じものがない。
世界を劇場に見立てるという考え方のもと、
聖人から始まって天使や想像上の獣、植物、
その他の無生物まで 配置されているそうだ。
対照的な彫刻が並ぶ。
外套を羽織り大鎌を持った残忍な死神である骸骨と
赤ん坊のイエスを運ぶ守護者・聖クリストファー
1901~1905年 内装の修復されたときの
小舟を模したシャンデリア と パイプオルガン。
ヴィリニュス 最初の見学は
旧市街地からネリス川沿いに東北にある
「聖ペテロ・パウロ教会」へ
この教会は、1655∼61年の対ロシア戦争後、
反乱軍に追われたパツァス将軍が、
廃墟になっていた教会に身を
隠して助かったことの返礼に、
この教会を造り寄進したという。
外装に7年、内装には30年も
費やされたという美しい教会で、
リトアニアバロックの真珠とも言われ、
最も傑出した建築様式の教会といわれている。
この教会の建設資金を拠出したのは、
当時の将軍パツァスであったが、
1682年に亡くなり、遺言に従い、
ラテン語で「ここに罪人眠る」と刻まれた墓石とともに、
教会入口の上がり段の下に埋葬された。
見事な教会を自らの廟として残すことは、
当時最も誉れの高いことと考えられていた。
また、正面入り口の上部
“ペテロの象徴”である教皇の冠と
“パウロの象徴”の剣を持つ天使像が
飾られている。
リトアニアの正式名称は
「リトアニア共和国」で、人口は約325万人。
バルト三国の1つでラトビア、ベラルーシ、ポーランド、
ロシア(カリーニングラード)と国境を接している。
1940年 旧ソ連邦に編入された。
1990年 ソ連からの独立宣言を議会で採択した。
2004年 エストニア、ラトビアとともにEUに加盟。
2015年1月 ユーロを導入し、
バルト三国がユーロが流通することとなった。
公用語のリトアニア語はバルト系言語で、
ラトビア語と同じグループに属する。
宗教は主にカトリックで、文化面は
隣国ポーランドの影響が大きいと言われている。
国旗の
黄色は太陽、光、繁栄の色。
緑は自然の美しさと自由と希望の色。
赤は大地と勇気と祖国のために
流された血の色。 を象徴している。
ツアー4日目
リトアニアの首都「ヴィリニュス」へ
人口55万人のリトアニア最大の都市でもある。
ヴィリニュスの歴史は、
リトアニア大公国の王であったミンダウカスの
居城が造られた13世紀にまで遡る。
1316年、ゲディミナス大公(在位1316-1341)の命により、
このネリス川沿いに城を築き首都と定めた。
首都ヴィリニュスは、バルト3国の中で
唯一海に面していない。
このことが数世紀に渡り国境が
幾度も変わったことに繋がっている。
また、エストニア・タリンやラトビア・リガのような
ハンザ同盟の影響を受けずに、
東西欧州の接点としてさまざまな人種が住んでいたことから、
カトリックと異文化の十字路と言われ
ゴシック、ルネッサンス、そしてバロック様式と
多様な建造物が共存する中で 教会が多く見られる。
広さ3.6k㎡の旧市街は、ヨーロッパ最大を誇り、
「ヴィリニュス歴史地区」として、
1994年に世界遺産に登録された。
ソ連から独立した3年後、
1993年9月7日
ポーランド出身の教皇ヨハネパウロⅡ世が
ここから十字架の丘に向かって
ミサを行っている。
その時の言葉
“希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所” が
大十字架の台座に刻まれてあり、
また記念のプレートがあった。
1993年9月7日の記念プレート 台座にお言葉が刻まれている。
6分ほどで 十字架の丘の正面に到着。
目の前に 大小無数の十字架に
埋め尽くされた丘が広がる。
ここに建てられた十字架は、
高さ5m以上の芸術的なものから、
鈴なりに掛けられたロザリオまで、
その数はリトアニアの生者の数より多いとか。
実際はどれくらいの十字架があるのか、
確実にはわからないと言われている。
また日々増えて続けているので、
そのスペースは周辺まで広がっている。
ただ、ここは墓地ではないので、
死体は埋められていないとのこと。
資料によれば
最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後、
処刑や流刑にされた人々のために立てられたらしい。
それからは十字架の丘は、
抑圧された民族、宗教の象徴として扱われてきた。
ソ連時代この丘は禁域とされ、
KGBと軍はブルドーザーを使って
何度も十字架をなぎ倒し、焼きはらった。
しかし、そんな「ソ連の統治下」で
「キリスト教」への「忠誠心」を示すためだった。
今は「結婚式や洗礼」など「人生の記念日」に、
十字架を立てていくという。