あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

リトアニア・ヴィリニュス 16 ピリエス通り

2018-03-16 | バルト三国紀行

 

 右手奥に聖ヨハネ教会が見える。

 

大聖堂広場の南に 
「ピリエス通り」が
市庁舎広場に向かって延び

ヴィリニュスのメインストリートになっている。
敷き詰められた石畳が印象的だ。

“ピリエス”とは、「城」の意味で
古くから城の門前町として栄えた通り。


周辺には、ヴィリニュス大学や聖ヨハネ教会、
聖アンナ教会が、また食事処や、
アイスクリームを売っている店があり
観光客で賑わっている。



リトアニア・ヴィリニュス 15 国立博物館

2018-03-15 | バルト三国紀行

 

 背景はゲティミナス城

 

大聖堂の北側、緑豊かな公園の中に
赤い屋根の「国立博物館」が見える。


かつては18世紀に建設された
細長い武器庫であったが
現在は膨大な資料を収めている博物館。

中世に大発展したリトアニア大公時代から
苦難の19世紀までの歴史が
順を追って展示されているという。

また 生活用品や手工芸品などの
民俗資料をも集めた展示も豊富で、

特に民家の内部を再現した一角は見どころとのこと。

博物館の前には、初代リトアニア大公であり、
唯一のリトアニア国王である、

ミンダガウス王の像が置かれている。

 


リトアニア・ヴィリニュス 14 ゲディミナス城

2018-03-14 | バルト三国紀行

 

 ネリス川側から丘の上に建つ「ゲディミナス城」を望む。
 手前の建物は「国立博物館」

 

丘の麓にある「王宮」は、
「下の城」といわれるが
 王宮の東側の丘にある

「ゲディミナス城」は
「上の城」と呼ばれている。

 

14世紀、ゲディミナス(在位1316-1341年)が、
トラカイからヴィリニュスに遷都した際に、
丘の上に、木造のゲディミナス城を築いた。(1323年)

ハンザの商人や職人を招き入れ、
東西貿易の中継地とて街を発展させた。


19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊された。
丘の上には、周囲約320mの城壁跡が残り
 中庭には教会や複数の建築物が

あったと考えられているが、
1409年にレンガ造りの要塞に改築した一部、

監視塔のみが残っている。

丘の上までは、徒歩または
ケーブルカーで登ることができ、
新市街と旧市街が一望できる。

大型クレーンが見えるが 
丘の法面を補修中のようだ。


  
ピリエス通りから見たゲディミナス城


リトアニア・ヴィリニュス 13 王宮

2018-03-13 | バルト三国紀行

 

 

大聖堂の東隣に 豪華なルネッサンス様式の
リトアニア大公の宮殿がある。


15世紀に建てられ、4世紀にわたって、
代々のリトアニア大公が住んだ白亜の宮殿であり
国の政治・外交・文化の中心だった。

しかし、19世紀初めにロシア帝政政権の命令で
取り壊されてしまい長い間公園となっていた。


リトアニアの独立後、象徴的イベントとして
2002年に再建が始まり、2013年に完成した。


現在、宮殿の一部は博物館として開放されており、

古代遺跡や出土品を通し宮殿の歴史と建築の発展を、
ホールでは後期ゴシック様式からルネッサンス様式への
建築スタイルの変遷が展示されている。

 


リトアニア・ヴィリニュス 12 ゲディミナス大公像

2018-03-12 | バルト三国紀行

 

 

広場の一角に1996年に設置された

「ゲディミナス大公像」がある。


リトアニア大公であったゲディミナスは,

ヴィリニャ川とネリス川に挟まれた谷へ狩猟に来た時、

道に迷い野営せざるを得なくなり、

その晩、唸り声を上げている100頭の鉄の狼の夢を見て、

「鉄の狼のように強くなる。

そして,唸り声は街の反映を意味する。」と思いう。


ゲディミナスは,これをお告だと捉え、

ここに街をつくることにしたという。


この伝説に沿って銅像が建立されたとのこと。


この像 大公が馬を降りて、剣を抜いている姿だが

雄姿となると乗馬している銅像が普通だが


これは珍しい。





リトアニア・ヴィリニュス 11 カジミエル礼拝堂

2018-03-11 | バルト三国紀行

 

 

大聖堂の最大の見どころは

リトアニア大公国の王子が
1484年に25歳で早世し安置された
「カジミエル礼拝堂」。

大理石と砂岩で造られ、壁画は8体の王の像、
漆喰彫刻、フレスコ画などで飾られている。

正面祭壇にあるカジミエルの聖画には
右手が 2つ描かれているが、

伝説では画家が彼を描いた際に
右手を書き直そうと何度消しても
再び現れたことから 
2つとも描くことにしたという、


両側の壁には
 “カジミエルの奇跡” を描いたフレスコ画がある。
左は彼の死後120年後に開棺したところ
全く無傷の状態であった奇蹟、

右はウルスラという名の若い娘の死後そ
の父親がカジミエルの棺に祈ると娘が復活したという
奇跡を描いている。

 左側壁のカジミエルの奇跡


 


リトアニア・ヴィリニュス 10 大聖堂

2018-03-10 | バルト三国紀行

 

 

ヴィリニュス大聖堂は、13世紀半ば 
リトアニアの建国者ミンダウガス大公が、
十字軍騎士団の圧力から逃れるため、
キリスト教に改宗した際に建てた
教会が起源となっている。

1263年 王が亡くなった後に、
ヴィリニュスにもともとあった
自然崇拝の聖地に戻されたが、

すぐにキリスト教化され 再度教会が建てられた。

その後、戦禍などで幾度も増改築がされ、
15世紀にゴシック様式、
16世紀には ルネサンス様式になり、
17世紀バロック様式で 再建されます。

そして、1783年に完成、
現在見られる 6本のドーリア式円柱をもつ
新古典主義様式の姿となった。

更に 2006~2008年に大改装された。

 屋上に立つ 3つの彫像は、
右(南)の聖カジミエルがリトアニアを象徴し、
左(北)の聖スタニスラフがポーランドを象徴し、
中央の聖へレナが 十字架を抱いている。


この3体 ソ連領だった 1950年に撤去されたが、
1997年に復元された。

 


リトアニア・ヴィリニュス 9 鐘楼

2018-03-09 | バルト三国紀行

 

 

ヴィリニュス大聖堂の前に、

高さ53mの鐘塔が 聳えている。

鐘塔の下層部分は、13世紀の城壁の塔の一部で、

ヴィリニュスで 最も古い建造物の一つ。


1520年代に、2つの八角形の上層部分を加えて鐘塔になり、

10個の鐘が 架けられているそうだ。

また、今まで見てきた聖堂と鐘塔は 1対形だったが 

ここは分離型になっているのは 珍しいが

ギリシア神殿に似た大聖堂と マッチして印象的だ。

 

 


リトアニア・ヴィリニュス 8 人間の鎖

2018-03-08 | バルト三国紀行

 

 

 

聖ペトロ教会の見学を終え、旧市内の中心地
「大聖堂広場」(カテドゥロス広場)へ

この広場 大聖堂の前の一角に
 両足の跡のプレートが埋め込まれている。


1989年8月23日、
この地からラトビア首都・リーガ、

さらにエストニア首都・タリンへと3つの国を、
総距離600㎞の“バルトの道”を

約200万人の人々が手を繋ぎ、
バルト三国の一体感を示す「人間の鎖」として、

バルト三国のソビエト連邦からの独立を世界に訴えた。

これをこれにより 1990年リトアニアの独立回復宣言、

1991年に、ソビエト国家評議会は三国の独立を承認した。

 

 

また、「STEBUKLAS」(奇蹟)の
プレートが敷石の一枚にあった。

なお、この上に立って、願いを唱え、
廻れば願いが叶うと言われている。

 

 


リトアニア・ヴィリニュス 7 聖ペテロ・パウロ教会 2

2018-03-07 | バルト三国紀行

 

 

教会内部ある2000以上もの漆喰の彫像や装飾は
 一つとして同じものがない。
世界を劇場に見立てるという考え方のもと、
聖人から始まって天使や想像上の獣、植物、
その他の無生物まで 配置されているそうだ。

 

  

   対照的な彫刻が並ぶ。 
外套を羽織り大鎌を持った残忍な死神である骸骨と

  赤ん坊のイエスを運ぶ守護者・聖クリストファー

              

       1901~1905年 内装の修復されたときの
      小舟を模したシャンデリア と パイプオルガン。

 

 


リトアニア・ヴィリニュス 6 聖ペテロ・パウロ教会

2018-03-06 | バルト三国紀行

 

 

ヴィリニュス 最初の見学は 
旧市街地からネリス川沿いに東北にある
「聖ペテロ・パウロ教会」へ

 この教会は、1655∼61年の対ロシア戦争後、
反乱軍に追われたパツァス将軍が、

廃墟になっていた教会に身を
隠して助かったことの返礼に、
この教会を造り寄進したという。

外装に7年、内装には30年も
費やされたという美しい教会で、

リトアニアバロックの真珠とも言われ、
最も傑出した建築様式の教会といわれている。

 
この教会の建設資金を拠出したのは、
当時の将軍パツァスであったが、

1682年に亡くなり、遺言に従い、
ラテン語で「ここに罪人眠る」と刻まれた墓石とともに、

教会入口の上がり段の下に埋葬された。

見事な教会を自らの廟として残すことは、
当時最も誉れの高いことと考えられていた。

 


また、正面入り口の上部

“ペテロの象徴”である教皇の冠と
“パウロの象徴”の剣を持つ天使像が 
飾られている。 

 

 


リトアニア・ヴィリニュス 5 リトアニア共和国

2018-03-05 | バルト三国紀行

 

 

リトアニアの正式名称は
「リトアニア共和国」で、人口は約325万人。

バルト三国の1つでラトビア、ベラルーシ、ポーランド、
ロシア(カリーニングラード)と国境を接している。


         1940年 旧ソ連邦に編入された。
                1990年 ソ連からの独立宣言を議会で採択した。
                 2004年 エストニア、ラトビアとともにEUに加盟。
        2015年1月 ユーロを導入し、
                    バルト三国がユーロが流通することとなった。


公用語のリトアニア語はバルト系言語で、

ラトビア語と同じグループに属する。
宗教は主にカトリックで、文化面は
隣国ポーランドの影響が大きいと言われている。

国旗の
黄色は太陽、光、繁栄の色。

緑は自然の美しさと自由と希望の色。
赤は大地と勇気と祖国のために
流された血の色。 を象徴している。

 


リトアニア・ヴィリニュス 4 首都ヴィリニュス

2018-03-04 | バルト三国紀行

 

 

ツアー4日目 
リトアニアの首都「ヴィリニュス」へ

人口55万人のリトアニア最大の都市でもある。

ヴィリニュスの歴史は、
リトアニア大公国の王であったミンダウカスの
居城が造られた13世紀にまで遡る。

1316年、ゲディミナス大公(在位1316-1341)の命により、

このネリス川沿いに城を築き首都と定めた。

首都ヴィリニュスは、バルト3国の中で
唯一海に面していない。
このことが数世紀に渡り国境が

幾度も変わったことに繋がっている。

また、エストニア・タリンやラトビア・リガのような
ハンザ同盟の影響を受けずに、
東西欧州の接点としてさまざまな人種が住んでいたことから、
カトリックと異文化の十字路と言われ
ゴシック、ルネッサンス、そしてバロック様式と
多様な建造物が共存する中で 教会が多く見られる。

広さ3.6k㎡の旧市街は、ヨーロッパ最大を誇り、
「ヴィリニュス歴史地区」として、
1994年に世界遺産に登録された。

 

 


リトアニア 3 十字架の丘3

2018-03-03 | バルト三国紀行

 

 

ソ連から独立した3年後、

1993年9月7日


ポーランド出身の教皇ヨハネパウロⅡ世が

ここから十字架の丘に向かって


ミサを行っている。

 その時の言葉

“希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所” が

 大十字架の台座に刻まれてあり、

また記念のプレートがあった。

           

                            1993年9月7日の記念プレート          台座にお言葉が刻まれている。

 

 


リトアニア 2 十字架の丘2

2018-03-02 | バルト三国紀行

 

 

6分ほどで 十字架の丘の正面に到着。
目の前に 大小無数の十字架に
埋め尽くされた丘が広がる。


ここに建てられた十字架は、
高さ5m以上の芸術的なものから、
鈴なりに掛けられたロザリオまで、
その数はリトアニアの生者の数より多いとか。

実際はどれくらいの十字架があるのか、
確実にはわからないと言われている。

 また日々増えて続けているので、
そのスペースは周辺まで広がっている。

ただ、ここは墓地ではないので、
死体は埋められていないとのこと。

資料によれば
最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後、
処刑や流刑にされた人々のために立てられたらしい。


それからは十字架の丘は、
抑圧された民族、宗教の象徴として扱われてきた。

ソ連時代この丘は禁域とされ、
KGBと軍はブルドーザーを使って
何度も十字架をなぎ倒し、焼きはらった。

しかし、そんな「ソ連の統治下」で
「キリスト教」への「忠誠心」を示すためだった。

今は「結婚式や洗礼」など「人生の記念日」に、
十字架を立てていくという。