アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

本気勝負の駒落ち将棋

2013年10月08日 | 生活
昔、たくさん持っていた将棋の本も、今ではほとんど処分してしまったのでほんの少ししか残っていない。

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なので、突然こじろうから「二枚落ちの駒組みがわかる本貸して」と言われたとき、ジャストそういうたぐいの本が残っていなくて困った(そんなんいくらでも持ってたのに…)。

かろうじて残っていた本は「最強の駒落ち」(先崎学)で、これは2004年発行の本というから、私が将棋の本を買い漁っていたころから十数年も経ってから突然買った本ということになる。なにしろ本にはハナが効く私なので、ぱらぱらっとめくっただけで「この本はスゴイ」ということがわかって、そのころぜんぜん将棋は指していなかったのに即お買い上げとなったものだ。しかし、そのころぜんぜん将棋は指していなかったので、ほとんど読まずにお蔵入りになっていたのだ。なんともったいない。

この本は、フツーの駒落ち本ではない。フツーの駒落ち本というのは、とにもかくにも下手(弱いほう、教えてもらうほう)の立場に立って書かれているもので、わかりやすく駒組みから理想の勝ち手順が載っている。そしていくつかの枝分かれ。上手がこうだったらこうすればやっぱりイイネというご都合主義的なtreeが展開されている。

これはこれで悪いことはなくて、そういう理想の手順を勉強すれば狙いの手筋というものがわかるし、実戦で使ったら絶対そんな進行にはならないけれど、どう違うとどううまくいかないのかは試して一歩一歩身につけていけばよい。そのうち、その定跡(ちょっと作り物っぽかった)の位置づけというものもつかめてきたころに、その手合いは卒業に近くなり、それと同時に将棋というものの理解も深まっていることでしょう。そういう意味でちゃんと役には立つ。

一方、この本が変わっているのは、まず、上手を持つ人と下手を持つ人の両方に向けて書かれていること、それから、正直ベースで表ウラ両方から追究していることだ。上手の本音がこんなに赤裸々に書いてある一般向け棋書をほかに私は知らない。

駒落ちの上手はプロの専売特許かといえばそうでもなく、覚えたての人の相手をするならやはり駒落ちということになるだろう。しかし、自分だって初段あるかなきかの実力で、駒落ちといったら下手しか持ったことがない人が、いくらルール覚えたてといっても六枚落ち、八枚落ちの上手を持たされたら何を考えたらよいかわからず呆然としてしまうだろう。

たいていの駒落ち本が六枚落ちから始まっているのに対し、この本は八枚落ちから始まっている。八枚落ちというのは、玉と歩のほか金が二枚あるだけという布陣である。さらに十枚落ちとなれば玉と歩だけになるけれど(究極ハンデ)、その十枚落ちではなく、六枚落ちではなく、八枚落ち。これはなぜか。

十枚落ちの場合、上手は有効な手というものがそもそもほとんどなく、玉をうろうろして「パス」しながら下手が何かしてくれるのを待つしかない。これはかなり情けない感じで、もちろんルールが怪しいレベルの人にそうやって説明してあげるのはアリだろうけど、さっさと勝ちの形を作ってあげて長居を避けるのが吉である。

八枚落ちといってもスカスカだけど、いちおう少し、いろんな意味で有効手がある。下手が「端の破り方」を理解したらもうとにかく破られるのは確定だけど、その破られ方に最善を尽くして、中段玉でぬるぬるとかわしつつ、ミスを待つこともできる。下手としては、十枚落ちと違って、「金を攻める」という経験を積めるところが大きなポイントである。

先崎さんは、プロ棋士であるから数え切れないほど駒落ちを指しているけれど(それもおシゴトである)、正直、八枚落ちを指しているときには、本気で勝負しているつもりはなくて、うまく(相手が)勝ってほしいなぁという気持ちが強かったそうだ。

しかし故灘九段がいうには「八枚落ちで初段のシロウトさんに勝つ自信がある」と。六枚ならともかく八枚じゃ無理でしょう、というのが大方の感覚だが、灘九段が示した手順はなるほど上手に勝機があるかと思われるものだった。

(えーこんなに書いてまだ話のマクラだよ。どうすんの。というわけで続く)

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コメント (4)
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