アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

言葉と音楽表現

2018年03月23日 | ピアノ
歌詞のある曲を弾いたり、詩のある曲を弾いたりしたのがたいへん楽しめたので、でもピアノ曲の大半はそういう「言葉」には直接の関係を持たないわけで、言葉の力を借りなくても豊かに表現できるというのが(ピアノ演奏の)「正統派」なのかな? というようなことをつらつら考えておりましたところ、

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そんなタイミングで昨日は声楽のコンサートでした。

つまりは歌詞があって歌う、言葉には意味があってそれが通じるというのが前提の音楽です。

しかし昨日のコンサートはオール「ロシア」でして…

ラフマニノフ、チャイコフスキー、ムソルグスキーなど、歌詞は全部ロシア語(o_o)
ひとっこともわかりません。(あ、たぶん「にぇっと」とかいってるのは否定)

ダルゴムィシスキーという、ダンゴムシみたいな名前の作曲家の「粉屋」って曲があったんですが、プログラムに載ってた説明によれば「酔っ払った粉屋がうちに帰ってくる、と見慣れない靴が。奥さんからこれは「バケツ」だといわれ、今までコツコツ生きてきたが、こんなことは初めてだと嘆く」という歌です。

ロシア語で歌っている以上、直接その言葉の意味は私には伝わりませんので、まぁ結局のところ心の中で歌詞つきで歌いながら旋律をピアノで弾いているのとあまり変わらないというのが理屈のようにも思えますが、やはり実際に聞いた感じはかなり違うものです。

(私にとっては)意味が解読できてないにしても、(ほんとうは)なんらかの意味を持つ言葉というものが、明確に旋律のある部分にハマっているわけで、具体的な事物や感情が、器楽のみの曲より密度濃く発せられているような感じです。

そう感じるのは、ひとつには歌が歌われるときに歌詞があるだけでなく、動作や表情などで豊かに彩られているからかもしれません。「粉屋」を歌うときには、酔っ払った千鳥足とか、びっくりとか、不快とかそういう表情もくるくる変えて演技していましたから。

そういえばピアノを弾くときも百面相している人とかいますけど、まぁいちおうは邪道というか、別に無表情で弾けというのではないけれど、音で伝わらない分は公式には無効(表現されたとして勘定しない)みたいなところがありますね。

でも声楽では動作や表情で演技することで伝わるのもぜんぜんアリで、むしろそういう練習も真剣にしているんだと思います。

ピアノも、歌うように弾けとか歌って弾けとか、歌の心とは通じるものがあるはずなのでしょうが、表現のあり方というのは似ていたり違っていたりする…違っている部分は「言葉との密着度」というのが大きいように思うのですが、だからきっとピアノやってる人が歌もやるのはいいことがあるでしょうね。歌のレッスンも受けてるピアノ関係のマイミクさんがそんなこといってた。

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