アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

自己実現の病と、もうひとつの道

2013年06月05日 | 生活
「幸せじょうずになりたいの」の続きです。

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自分が生まれてきたことに意味を付加するのが自分の使命だと思ってる中村うさぎさんにしても、オウム真理教にハマった若者にしても、とにかく本物の自分探しというかいわゆる「自己実現」ってやつですか。そういうのをまじめに追究することって、基本的には「よいこと」とされているでしょう? 日々怠惰に生活してるよりは(^^;; でも、それなのになんで、生きづらくなっちゃうのか。

うさぎさんの母親は、子どもを通して自分が自己実現したい親のハシリで、習い事をさせたりとか、小説家になりたいのかなと思うと本だけは買ってくれたりとか。けど、漫画のほうに傾倒してきたらそれはダメとか(笑)。職業に階層がある。

まーけど、そんな親いくらでもいるというか、ごくふつうですよね。

自己実現の病…自己実現欲求が、生活の張りになるどころか、苦しさにのほうにしかつながってない状況はもう「病」といっちゃっていいと思うんですが、そういうのは、親のあり方とも深く関わってることが多いです。うさぎさんは「もっとやればできるはず」という親の言葉に縛られてるかもしれないと言っていますが…これまた、親がそう言うってのは、ごくふつうのことです。それがいけないというわけでもないと思うんですが。

ともかく、何ものかになりたいとか、自己実現といってもそれは、完全に自由に自分がなりたいものを考えるというのじゃなくて、みんながわかってくれる程度、頭ひとつ分抜け出したい、みたいな。自分が認めるのでは充分ではなく、他者から承認されたい。「他者に依存しながら、他者と差別化したい」(小倉)。

そうすると、道は大きく二つに分かれていて、「勉強をがんばるか(仕事方面)、ネイルを上手に塗るか(結婚方面)」。どちらが得意なのか、どちらのほうが効率よく上昇できるかを、女子は早い段階で見極める(顔面偏差値で?)。

よくあるのは、仕事で自己実現勝ち組になったところで母親から、「結婚はしなくていいけど、子どもくらいは作っておいたら?」といわれるとか。要するに、「私のようなつまらない人生ではなくて、あなたの才能を生かして、ほかの人とは違う、いい大学へ行っていい会社に行きなさい」と言っていたのに、あるときから「結婚はやっぱりしたほうが」「子どもはいたほうが」と言い出す。かけた梯子をはずされた、的な。そして引き裂かれる。

どちらを選んでも、「生きられなかったもうひとりの私」がいるという…

うさぎさんはもちろん、仕事方面でバリバリやって、さらにわかりやすい差別化の方法としてブランドバッグを買いあさったりしてきたんだけれども、それで「自己実現した」という実感は持てず、いつでもやっぱり何かに駆り立てられたまま、隣の芝生は青い。手軽に自己実現(=出産)をした人を見ると、「子どもは羨ましくないんだけど、子どもをもったことで満ち足りた表情をしている女が悔しい」(中村)。

この問題を語らせれば、小倉千加子の右に出る人もあんまりいないわけで、「幸福論」の中でもこのテーマはいろんな角度から繰り返し取り上げられています。当然、中村うさぎがよくわかっていないと思われる、芝生が青く見えるお隣さんが必ずしも簡単に満たされてはいない(育児ストレス、児童虐待)ことなども指摘しています。

私は小倉さんの本、これまでにも何冊か読んできて、おおむね共感できるというかうまく書けているなと思うんですが、微妙に違和感も残るんですね。特に今回強く感じました。それは、出産と育児の持つ意味が充分に表現できていないということです。

「十か月もお腹にとどめて、それも乗り越え、そして出産の苦痛を乗り越え…痛ければ痛いほど達成感は強いはず。しかもその子は、自分がいないと生きていけないという、「誰かのために生きたい」願望も、その子によって満たされる」「女の人にとって、いちばん安易でありながら、いちばん強力な自己実現」

ま、外れてはいない、と思うんですね。そういう面はあるんだけど、いちばん大事なところはそこではないような、かゆいところに手が届かない感じがします。それと、二つの道のどちらも半端に選択したタイプ(私のような)が抱える喜びと悩みのことは書かれていないんですよね。

結局、なぜ、よしぞうやまたろうの登場が私をゆさぶって、生きやすくしてくれたのかについては、小倉千加子を読んでも整理されないんです。

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またろうの作り方: 初めての小学校・学童日記より(18)

2013年06月04日 | 小学生活
四月はずっとごたごたした日が続いているけど、五月になれば連休と産休が待っている。あとちょっと!!

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* * *

2000年4月26日(水):今日はおるすばんじゃないよ

今日は風邪でやむなく(引継ぎが終わるかどうか心配な状況なのだが)会社を休み一日中寝ていた。おやつだけ机の上に用意してまたろうの帰りを待つ。

6:10ごろ、がちゃっとドアノブを引いて鍵がかかっているのを確かめる音のあと、鍵をあけてまたろう登場。しんくんもいっしょだ。いつも送ってきてくれてるのだろうか?

「わー、ままいたのぉ(*^-^*)」またろうは驚きつつうれしそうな顔。そこのおやつ食べていいよ、というと「これまたろう一人で食べていいの?(と、いうほどの量おいてないんだけど)」とさらにうれしそう。空いているお茶のカップをみて「ママはもうおやつしたんだね」といいつつ「ママも食べる?」と「そば粉豆」を二つぶ分けてくれた(^^;;

こちらは寝たままでできることしかする気はないので、逆にサービス良くリクエストに応じて「一年の科学5月号」などを読んでやる。またろうはかろうじて平仮名の読み書きができるがまだ非常に時間がかかるので、まっさらの本を自分で読むことは滅多にない。「ひとりでお留守番」までに、「ひとりですらすら本が読める」ようにしとくといいことあったかなぁ。

夕食後はまたろう・こじろうにソファーを占有されたので私は寝室に退散。パパがまたろうに明日の時間割揃えをひとりでさせようとしていたが「明日はさんすうとこくごとおんがくで、今日と同じ」とかいうので疑問に思い、時間割を確認しにいった様子。案の定「今日が水曜日で明日は木曜日だってば」とやりなおし。それから、数日来はさみのカバーがかばんに入ったままになっているので「学校についたらかばんの中よく見るんだよ。ちゃんとお道具箱に戻しておいで」。道のりは遠い。

2000年4月27日(木):余裕の読書タイム(^-^)

今日はいつもの時間(6:25ごろ)にまたろうから電話。ちゃんとおてがみ読んで、おやつ食べてかけてきたんだね多分。「マーマー、いまどこー」「電車の中だよ。今日はパパが先に着くから、パパにかけてごらん」。

で、パパにかけたらしい。「パーパー、いまどこー」「電車降りて歩いてるよ」。今日も「先にお迎えしてただいま」で了解を(いちおう)得て、こじろうを連れて帰宅。またろうは「読書」をしていたそうだ。

今日の「おてがみ」は「あしたはぜんこうえんそくだね。おべんとうは、おにぎりとさんどいっちのどっちがいいかかんがえておいてね」と「おてがみといっしょにいれた「ちょこぼん(注:「一年の科学」の付録のミニ本)」、ままもみたけどけっこうおもしろかったよ。よんでみたら?」を書いておいた。

昨日も書いたとおり、またろうはすらすら字が読めるわけじゃないので、基本的にはひとりで初めての本を読むことはできない。「ちょこぼん」は長めの文章を適当に飛ばしても、クイズとか迷路があるから楽しめるかなーと思って誘ってみたのだ。

私が帰宅してから、こんどはいっしょに「ちょこぼん」を読んでやった。迷路はささっと通るし、「おなじうちゅうせんをみつけよう」なんてのも一瞬で「これ!」というので「はやーい!」というと「だってさっき見たんだもん(*^-^*)」と得意げ。一人で読んでいてもけっこう楽しく読めたみたいだね。

それにしても、一人がこうやってこどもの相手をしていても、もう一人が家事をできていれば腹も立たないし(というか、困らないし)やっぱりいつもこうして夫婦揃えばねぇ。

「またろう、明日のおべんとうはおにぎりかサンドイッチか決めた?」「うん、決めたよ!おにぎり!」はいはい。じゃ、そういうことにしましょう。

なかなか平和な日じゃないかぁ(←初めて書いたような気がする)。

* * *

今、読み返して思ったのだが、このころはなんと「はさみカバー」なんてものを気にかけているんですね。理想が高いなぁ~そんなもん、ほんとどうでもいいじゃない、と今なら思ってしまう。こののち、1に集金、2に給食袋、3に宿題であとはもうムリ、みたいな境地になってゆく。

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月いちレッスンでどこまでいける!?

2013年06月03日 | バイオリン
バイオリン、さやか先生レッスンの二回目です♪ 前回のレッスンから一ヶ月と数日経ってしまってます。さやか先生曰く、上達のためにはなるべく「月2」で、と…

   にほんブログ村 クラシックブログ ヴァイオリンへ←やっぱり「日をあけない」ことが大事らしい

そりゃ、さやか先生でなくたって誰だってそうおっしゃいますね(^^;;
私もそう思います。

しかし、私も一ヶ月前の私と同じではない~(^-^) というか、体験レッスンのときの私も、すでにブランクでへにょへにょになった音程を立て直し、鳴りも改善して、少なくともはなひめの受験前の水準には引き上げてから臨んだわけですが、それからさらに体験レッスンを経て何が変わったか。

体験レッスン前の、自宅練習ペースは
・平日は週のうち二回くらい、一回あたり15分
・週末は30分(土日の片方か両方かは週による)
でしたが(ちなみにこれは公称値というか、理論値(^^;;で、実態はこれより少なかった)、

これにプラスして、平日のどこかであと二回、五分ずつ音出しをするのが加わったと思ってください。

なぜそれができるようになったかというと、まぁひとつの要因は「気合い」ですが、もうひとつはさやか先生お奨めのボーイング練習です。「ソーソーソーソー(弓半分)ラーーラーー(弓全部)…」という感じなのでこれなら楽譜がいりません。譜面立てをよっこらしょーのー、楽譜ひろげーのー、という動作を省略して、どうかすれば調弦も省略して(←おい)、とにかくバイオリンのケースを開けてこれだけは弾こう、みたいな。

それで、とにかく音を出す日の率を上げるとやっぱり、心なしか鳴りが良くなったような気がします。そうすると気持ちがいいので、週末の練習時間もやや長めになったようです。いいこといっぱい。

それで、カイザーの四番を弾いてみるだけにしても、「この前より格段に鳴りがよくなりました~♪」さやか先生もうれしそうです(^^)

レッスンの中身は、四番の変てこな指の開きの音程取るのがぐぐっと改善したのでこれで終わりってことにして、曲は「G線上のアリア」。

これは、曲の中でビブラートを使う練習をしたいということでのチョイスでしたが、音のつながりを考えて(弦またぎの移弦をしなくていいように)、1ポジでも弾ける音(高くない音)で3ポジを使ってみるとか自分で考えたら余計ハマリで、なんかA線3ポジの4の指とかの音が出だしキタナイとか、だんだん何がやりたいんだかわかんなくなってました。

指使いで、不自然なところを直してもらったりとか、音がきたない原因(右手に力が入りすぎ・音の頭で毛をべたっと使いすぎ)もアドバイスもらって、あぁこんな感じかなと。

まぁこの曲は課題残りですね…超苦手だわ…

それと、きーちゃんさんと弾きたいと思ってるビバルディの、こんどは三楽章(の、なぜか1st)。最初、私がひとりで弾いてみたら(いろいろ弾けてないけど)、先生は、意外にも、弾けてない細かいところについて言うより先に、「テンポそのくらいで行くんですか?」と。

いやーまさか。これじゃ曲にならんですわね。「いやいくらなんでももう少し速くしたいですけど…」というと先生は「この曲はもっと勢いがあるほうか」といって、先生も同じパートでいっしょに弾き始めた。それが、曲としてのノリ重視で、弾いたことのない速さで(とはいえ、世間的にはすごくゆっくりなんだと思いますが)、弾かれてしまって、ほらやっぱりつられるというか、つい合わせようとするでしょ。だから、こちらも曲としてのノリで弾いてしまうわけです。くどいようですが細かいとこは弾けていないんですけど。

だから、イメージ的にはこう弾きたいよねという雰囲気で、一気に。

それで、弾き終わって、先生にっこり「あ、大丈夫ですね♪」…いや…だいじょばなかったけど(^^;;

それからようやく細かい話に入っていったのでした。

話が戻って、月いちレッスンでどこまでやれるかということですが、次回もやっぱり約束できたのが一ヵ月後で。でも、まぁ私としては、一時間たっぷり、疑問点を解決して次の一ヶ月の練習内容を計画立てて。それで、ぶっちゃけ練習時間も(期間が一ヶ月あるとはいえ)トータル充分短いわけで(?)なんかちょうどいいような気もしなくもないんですね。しばらくはこれで行って、半年くらいして生活が落ち着いたら改善しようかと。

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幸せじょうずになりたいの

2013年06月02日 | 生活
中村うさぎさんってご存知ですか? 私は、お買い物エッセイを読んだことがあります。常軌を逸したブランド狂い、買い物依存症といっていい状態なんですが、それをネタにすることで、出版社から前借りして自転車操業をつないでいるすごい人って感じ。

   にほんブログ村 教育ブログ 中高一貫教育へ←自己実現の罠みたいな話に到達する前にすでにこの長さ

その後は読んでいなかったのですが、買い物が一段落してから、今度はホストに貢ぎ、さらには整形にハマったという話を何かで目にして、いやすごいなどこまでいくんだろうと思っていました。

で、先日、「赤毛のアン」つながりで、幸せってなんだろう的なことを考えつつ、小倉千加子の「「赤毛のアン」の秘密」→「幸福論(小倉千加子+中村うさぎ)」 いまココ。

中村うさぎの行動はほんものの嗜癖かネタか、っていうところがひとつ誰でも思う疑問だけれど、本人としては
「本物の嗜癖というのがどういうものかわからないので、自分が本物かどうか、いまだにわからないんです」
とのことです。小倉さん曰く、その行為によって生活崩壊、破綻してそれ以上立ち行かなくなったら依存症。うさぎさんのは回っているのでつまりまだ「底をついていない」と。

まぁ、病気(依存症)と呼ぶか呼ばないかはどちらでもいいとして、うさぎさんは、何か「苦しい」状態に置かれていて、そこを抜け出すために買い物とかいろいろするんだけれど、なかなかゴールにいきつかない、とそういうことらしい。ネタなのかどうかはなんともいえないけれど、元がなくてはここまでやれないので、ネタであったとしても、自分の抱える現実をネタにしていたらものすごい成長したってところなのかもしれません。

苦しい状態というのは…「生まれてきたことに意味なんかないと思うんですよ。ただ、自分が生まれてきたことに意味を付加するのが自分の使命だと思ってるんです」とうさぎさん。「意味づけ」という到達点にいったら満足できるはず、なのか?

「意味づけ」のひとつの方法(?)として「ブランド物」があって、それはふつうでいうとまぁステイタスというか(リッチな旦那さんをつかまえたんだぞ、みたいな)なんだけど、うさぎさんの場合、借金してブランド物を買いまくっているわけで、得たバッグなどはすでに勲章ですらない。

なんか空しいサイクルだっていうことは、自分でもわかっているけど、人生の意味づけという崇高な目的からはハズれられないものらしい。このまじめさは何かに似ていますね…そうそう、オウム真理教の若者たち。

と、思ったら、うさぎさん自身がオウムについて言及し「絶対的な真理がこの世にあって、それを手に入れないと、人間には生きてきた意味がない」という幻想を持っているところが、自分に似ているといっています。ただ、
オウムの場合は「あらゆる欲望をそいでいったら、真の自分に到達できる」という幻想、
自分の場合は「あらゆる欲望を制覇していったら真の欲望が姿を現す」という幻想。
似ているけど、真逆。そこまでわかっていて、抜けられないのね。ほんとに、幸せ下手。うさぎさんは、自分が自分を幸せにできない、と、自分の「(幸せ)能力」に絶望しているのだそうだ。

買い物をする行為は幸せではないのかというと、これがまた難しいところで、あくまで「快感みたいなものの一瞬」はあるのだけど、それは持続しない。幸福という「状態」ではない。快感が過ぎ去ると、またさらなる快感を求めてしまい、状況としてはいつもいつも苦しい。

「これでいいや」と思える状態には到達できない。振り返ると、何千万円分のゴミの山。うさぎさんはそこで殺伐とした気持ちになり、もうこれ以上、モノはいいやと思ったそうなのですが、それでもまた次の依存(ホスト)の波が来た。

快感(点)をいくら集めても幸福(線)にはならず、このきりのない感じ、すごくわかるような気がするというか私も若いころ非常に「幸せ下手」であって、でもいつの間にか「幸せ上手」になったと思うんです。20年くらいかかった変化で。でも、元々もうさぎさんとは違っていたような気がするんですよね。「人生の意義」とか全然気にならないし。

自分のことを客観的にも見られて描写力もあって、いつもまじめに幸せを追求しているのに幸せ下手な中村うさぎ、
幸せ上手のカリスマみたいな赤毛のアンを書きながら、自分は非常に幸せ下手だったらしいモンゴメリ、
赤毛のアンを愛読しながら、それによって幸せ上手にはなれなかった(ような気がする)私たち、

みたいなことをつらつら考えていたらぜんぜんまとまらないうちにこの長さってどうよ。(まだ続くのか?)

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連弾にパーカッションを足してみたらば

2013年06月01日 | ピアノ
オフィスのあるビルの一階にコーヒー屋さんがあるんだけど、そこでミニコンサートがあるってんで行ってみました。

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三人のユニットで、二人がピアノでもう一人がパーカッション!? しかしコーヒー屋さんでどうやって。

…と思ったのですが、ピアノといっても生ピを運び込むわけはなく(そりゃそうだ)、鍵盤がピアノ並みにあるけど足が組み立て式のキーボードひとつ、それとピアニカやらおもちゃのピアノ、それとシンバル・カホン・おもちゃのトランペットその他ごちゃごちゃと持ち込んでのコンサートでした。

つまり、ピアノ弾きのうち一人がキーボード、もう一人はピアニカあるいはアコーディオンを弾くという手もありますが、基本は、二人がキーボードで連弾するわけね。

ピアノ二人の役どころは「イケメン」、パーカショニストは「和み系」ということらしい。見た目でいって、私の好みは二人の「イケメン」よりどっちかっていうとモンチッチを彷彿とさせるかわいさ漂うパーカショニストのほうだったのですが、ピアノ弾いてるところはすんごくかっこよかったです。

演奏中の見た目のおもしろさについてはずいぶん意識して練られているようで、「くまんばちの飛行」とかで二人の手がアクロバティックに重なりながら目にも留まらぬ早業で弾いていくところとか、いいですね~ぐぐっときます(^-^)

曲目は、ミヨーのスカラムーシュとか…あと、子どもが多かったので運動会シーズンを意識して徒競走メドレー。あと、このユニットの表芸としてピアソラのオブリヴィオンとリベルタンゴ。〆はトリッチ・トラッチ・ポルカ。

確かに、連弾だけじゃない、パーカッションが入ったユニットだということを生かしている演目ですね。前に、るんちゃんママさんと私でリベルタンゴの連弾をやったことがあって、もちろんわりと簡単な編曲だったというのもあるけど、るんちゃんママさんがすごくうまいわりになんとなく物足りないっていうか。カホンでも入ってればまたぜんぜん違う感じになるかもしれません。こんど、何かノリ系の連弾やるときにパーカッション混ぜてみるってのはどうですかねぇ(人材があればだけど)

「ピアノだって打楽器」で、音の立ち上がりがカツーンとしていますよね。ま、電子になってしまったキーボードを「打楽器」と呼べるかどうかちょっと微妙ですが(^^;; いちおうピアノを模しているということで。リズムがおもしろい曲の場合、とにかく打楽器「たち」のタイミングが、来てほしいところにピタッとハマればそりゃ気持ちいい。ということがよくわかりました。

…逆にいえば、ピアノのほうが「お指の都合」とかでぐにゃぐにゃしたリズムに崩れたとき、パーカッションが入ると残念感が際立つかもしれず、素人連弾にパーカッションを足すとどうなるかは難しい問題です(いつか実験してみる?)

店内のお客様の数はたいしたことなくて、それもたまたま居合わせたという感じ。わざわざ聞きに来た「好きもの」は私くらいのように見受けられたので、「ひとりじめ感」がたいへん気分よかったんですが、せっかくなのになんだかもったいない。

閉演後は真っ先にCDを購入し、三人ともにサインしてもらいました(^^)

ミヨー スカラムーシュより「フラジレイラ」
Caco et Tasso ホームページ

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