「幸せじょうずになりたいの」の続きです。
←ほんものの自分!? ってダレ??
自分が生まれてきたことに意味を付加するのが自分の使命だと思ってる中村うさぎさんにしても、オウム真理教にハマった若者にしても、とにかく本物の自分探しというかいわゆる「自己実現」ってやつですか。そういうのをまじめに追究することって、基本的には「よいこと」とされているでしょう? 日々怠惰に生活してるよりは(^^;; でも、それなのになんで、生きづらくなっちゃうのか。
うさぎさんの母親は、子どもを通して自分が自己実現したい親のハシリで、習い事をさせたりとか、小説家になりたいのかなと思うと本だけは買ってくれたりとか。けど、漫画のほうに傾倒してきたらそれはダメとか(笑)。職業に階層がある。
まーけど、そんな親いくらでもいるというか、ごくふつうですよね。
自己実現の病…自己実現欲求が、生活の張りになるどころか、苦しさにのほうにしかつながってない状況はもう「病」といっちゃっていいと思うんですが、そういうのは、親のあり方とも深く関わってることが多いです。うさぎさんは「もっとやればできるはず」という親の言葉に縛られてるかもしれないと言っていますが…これまた、親がそう言うってのは、ごくふつうのことです。それがいけないというわけでもないと思うんですが。
ともかく、何ものかになりたいとか、自己実現といってもそれは、完全に自由に自分がなりたいものを考えるというのじゃなくて、みんながわかってくれる程度、頭ひとつ分抜け出したい、みたいな。自分が認めるのでは充分ではなく、他者から承認されたい。「他者に依存しながら、他者と差別化したい」(小倉)。
そうすると、道は大きく二つに分かれていて、「勉強をがんばるか(仕事方面)、ネイルを上手に塗るか(結婚方面)」。どちらが得意なのか、どちらのほうが効率よく上昇できるかを、女子は早い段階で見極める(顔面偏差値で?)。
よくあるのは、仕事で自己実現勝ち組になったところで母親から、「結婚はしなくていいけど、子どもくらいは作っておいたら?」といわれるとか。要するに、「私のようなつまらない人生ではなくて、あなたの才能を生かして、ほかの人とは違う、いい大学へ行っていい会社に行きなさい」と言っていたのに、あるときから「結婚はやっぱりしたほうが」「子どもはいたほうが」と言い出す。かけた梯子をはずされた、的な。そして引き裂かれる。
どちらを選んでも、「生きられなかったもうひとりの私」がいるという…
うさぎさんはもちろん、仕事方面でバリバリやって、さらにわかりやすい差別化の方法としてブランドバッグを買いあさったりしてきたんだけれども、それで「自己実現した」という実感は持てず、いつでもやっぱり何かに駆り立てられたまま、隣の芝生は青い。手軽に自己実現(=出産)をした人を見ると、「子どもは羨ましくないんだけど、子どもをもったことで満ち足りた表情をしている女が悔しい」(中村)。
この問題を語らせれば、小倉千加子の右に出る人もあんまりいないわけで、「幸福論」の中でもこのテーマはいろんな角度から繰り返し取り上げられています。当然、中村うさぎがよくわかっていないと思われる、芝生が青く見えるお隣さんが必ずしも簡単に満たされてはいない(育児ストレス、児童虐待)ことなども指摘しています。
私は小倉さんの本、これまでにも何冊か読んできて、おおむね共感できるというかうまく書けているなと思うんですが、微妙に違和感も残るんですね。特に今回強く感じました。それは、出産と育児の持つ意味が充分に表現できていないということです。
「十か月もお腹にとどめて、それも乗り越え、そして出産の苦痛を乗り越え…痛ければ痛いほど達成感は強いはず。しかもその子は、自分がいないと生きていけないという、「誰かのために生きたい」願望も、その子によって満たされる」「女の人にとって、いちばん安易でありながら、いちばん強力な自己実現」
ま、外れてはいない、と思うんですね。そういう面はあるんだけど、いちばん大事なところはそこではないような、かゆいところに手が届かない感じがします。それと、二つの道のどちらも半端に選択したタイプ(私のような)が抱える喜びと悩みのことは書かれていないんですよね。
結局、なぜ、よしぞうやまたろうの登場が私をゆさぶって、生きやすくしてくれたのかについては、小倉千加子を読んでも整理されないんです。
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自分が生まれてきたことに意味を付加するのが自分の使命だと思ってる中村うさぎさんにしても、オウム真理教にハマった若者にしても、とにかく本物の自分探しというかいわゆる「自己実現」ってやつですか。そういうのをまじめに追究することって、基本的には「よいこと」とされているでしょう? 日々怠惰に生活してるよりは(^^;; でも、それなのになんで、生きづらくなっちゃうのか。
うさぎさんの母親は、子どもを通して自分が自己実現したい親のハシリで、習い事をさせたりとか、小説家になりたいのかなと思うと本だけは買ってくれたりとか。けど、漫画のほうに傾倒してきたらそれはダメとか(笑)。職業に階層がある。
まーけど、そんな親いくらでもいるというか、ごくふつうですよね。
自己実現の病…自己実現欲求が、生活の張りになるどころか、苦しさにのほうにしかつながってない状況はもう「病」といっちゃっていいと思うんですが、そういうのは、親のあり方とも深く関わってることが多いです。うさぎさんは「もっとやればできるはず」という親の言葉に縛られてるかもしれないと言っていますが…これまた、親がそう言うってのは、ごくふつうのことです。それがいけないというわけでもないと思うんですが。
ともかく、何ものかになりたいとか、自己実現といってもそれは、完全に自由に自分がなりたいものを考えるというのじゃなくて、みんながわかってくれる程度、頭ひとつ分抜け出したい、みたいな。自分が認めるのでは充分ではなく、他者から承認されたい。「他者に依存しながら、他者と差別化したい」(小倉)。
そうすると、道は大きく二つに分かれていて、「勉強をがんばるか(仕事方面)、ネイルを上手に塗るか(結婚方面)」。どちらが得意なのか、どちらのほうが効率よく上昇できるかを、女子は早い段階で見極める(顔面偏差値で?)。
よくあるのは、仕事で自己実現勝ち組になったところで母親から、「結婚はしなくていいけど、子どもくらいは作っておいたら?」といわれるとか。要するに、「私のようなつまらない人生ではなくて、あなたの才能を生かして、ほかの人とは違う、いい大学へ行っていい会社に行きなさい」と言っていたのに、あるときから「結婚はやっぱりしたほうが」「子どもはいたほうが」と言い出す。かけた梯子をはずされた、的な。そして引き裂かれる。
どちらを選んでも、「生きられなかったもうひとりの私」がいるという…
うさぎさんはもちろん、仕事方面でバリバリやって、さらにわかりやすい差別化の方法としてブランドバッグを買いあさったりしてきたんだけれども、それで「自己実現した」という実感は持てず、いつでもやっぱり何かに駆り立てられたまま、隣の芝生は青い。手軽に自己実現(=出産)をした人を見ると、「子どもは羨ましくないんだけど、子どもをもったことで満ち足りた表情をしている女が悔しい」(中村)。
この問題を語らせれば、小倉千加子の右に出る人もあんまりいないわけで、「幸福論」の中でもこのテーマはいろんな角度から繰り返し取り上げられています。当然、中村うさぎがよくわかっていないと思われる、芝生が青く見えるお隣さんが必ずしも簡単に満たされてはいない(育児ストレス、児童虐待)ことなども指摘しています。
私は小倉さんの本、これまでにも何冊か読んできて、おおむね共感できるというかうまく書けているなと思うんですが、微妙に違和感も残るんですね。特に今回強く感じました。それは、出産と育児の持つ意味が充分に表現できていないということです。
「十か月もお腹にとどめて、それも乗り越え、そして出産の苦痛を乗り越え…痛ければ痛いほど達成感は強いはず。しかもその子は、自分がいないと生きていけないという、「誰かのために生きたい」願望も、その子によって満たされる」「女の人にとって、いちばん安易でありながら、いちばん強力な自己実現」
ま、外れてはいない、と思うんですね。そういう面はあるんだけど、いちばん大事なところはそこではないような、かゆいところに手が届かない感じがします。それと、二つの道のどちらも半端に選択したタイプ(私のような)が抱える喜びと悩みのことは書かれていないんですよね。
結局、なぜ、よしぞうやまたろうの登場が私をゆさぶって、生きやすくしてくれたのかについては、小倉千加子を読んでも整理されないんです。
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