アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

ピアノ科の先生、教育音楽科の先生

2013年06月20日 | ピアノ
よいピアノの先生の条件、というものを勝手に考えてみますと、

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(1) 演奏がうまい、かつ好みであること
(2) 教え方がうまい、かつ自分の状況や能力に照らして相性がよいこと
(3) 人柄がよい、かつ自分との雑談で相性がよいこと(^^;;

とかね。ピアノ教師を職業としている人の中で、非常に大雑把にいえば、ピアノ科出身の先生なら(1)に、教育音楽科出身の先生なら(2)に重点を置いているというか自信を持っているのかなと思うんですけど。

ま、私くらい(の年齢)になりますと、自分の技量は棚に上げて、耳だけ肥えて好みがうるさくなってまいりますので、やはり(1)がね、納得いくってことはけっこう譲れない条件になってきます。そうすると、気に入る先生というのはピアノ科出身の先生であることが多い、かもしれない(ざっくり個人差を無視して言っています)。

そりゃピアノが下手よりうまいほうがいいけど、(2)がなってないとか(3)が論外というのでは話になりませんので、すべてはバランスの問題ですけど。

子どものレッスンを考える場合、どちらかというと(2)「教え方」や(3)「人柄」の重みが大きいです。私の子どもたちのレッスンを長年してくださっている(いた)のは教育音楽科出身の先生です。どのくらい長年かというと、またろうが確か小四のときからですからもう10年くらいになりますね。

小四のときのまたろうというと、そりゃもう「ある意味」すごくかわいいんですけど、リズム感は皆無(悪いんじゃなくて、「ない」んです)、譜読みはできない(そもそも文字の読み書きに難あり)、集中力や注意力にえらく難があるのはもちろん、動作の統合という部分もけっこうたいへんで、右手と左手で別のことをするなんていうのはほとんど無理でした。

結果からいうと、この協応動作がなんとか整って、急に両手でピアノが弾けるようになった(「ザナルカンドにて」のようなメロディー+分散和音)のは中学生三年生のときでした。そのくらいの動作、ふつうの子であれば小学校低学年で十分できるはずですが、またろうの場合はそういう時期になったわけです。

しかし、またろうの発達すべてが中学三年生のときに小学校一年生並になるという意味ではまったくなく、あちこち「でこぼこ」していて、ちっとも遅くないところもあり、つまりは中学三年生のときにはその年齢なりの可塑性しかない部分ってのも多いのです。中三になったときに初めて、小一の子に教えるように教え始めても、同じ成果は得られないのですね、たぶん。

小学四年生の時点では、当然のことながら、今後の発達の様子がどうなるかわからないのですけど、今できる部分から、かつ今楽しめる部分から、音楽の体験を積ませていって、様子を見ることになります。将来のことになんの保証もないので、あくまでも「今」、楽しさでモトがとれる範囲で、じわじわと。

そうやってあちこちに種まきしてあったものが、何か突然季節がやってきて、結実して、両手でピアノが楽しめるようになる。

ある程度ピアノが弾ける大人のレッスンで、現状の演奏のキズを治していくとか、そんな話とはレベルが違います。今、その子どもの中にはまだ見えないものを、想像しながら、創造していく。いや、創造とは違いますね。成長するのはあくまでその子ども本人で、先生が「作れる」わけじゃないんです。本人の方向を見ながら、誘ったり、補ったりしていく。

今でも、またろうは一般的な意味でいってピアノがうまいわけではありませんが、ピアノを弾くことが、何か自分の表現したいものを「のせる」手段のひとつとなっています。アニソンなどを弾くだけではなくて、パソコンミュージックのやり方を教えてもらったり、少しずつクラシック曲を教えてもらったりしながら、楽しみの幅を広げています。

発展途上ですが、越し方を振り返ると、その道のりの複雑さと長さに感動します。

これが「教育」なんだなと思うと、日ごろのせっかちな自分のことをちょっと反省してみたり(^^;;

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コメント (2)
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