ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

私の生まれ故郷に降る雪

2022-12-24 19:15:03 | Weblog
私の生まれ故郷は、新潟の柏崎だ。

テレビでたくさんの車が雪で動けなくなった柏崎の様子を、流していてビックリした。

柏崎に住む妹にラインしても、冬に雪が降るのは当たり前の事。
「ほら、こんなもんよ」と写真が送られてきた。

妹が住んでいるところは、街の中心に近いので、積もるといってもそれほどでもない。

でも、私達の生まれた所は、もっと山の方なので、子供の頃は、それはそれはたくさん積もった。

今と違って、子供の頃は幹線道路が雪で除雪が出来なくて、車が通れないことはよくあった。
それに、自家用車とかマイカーなんて言葉も無かった頃。
雪に振り込められても、毎年の事とそんなに気にもしなかった。
ただ、父は早く起きて、新聞配達者の為に、カンジキで歩くための道をつけていた。

今は、どこの家にも車が1〜2台はあるので、雪が多いと困る。
だから家庭用の除雪機を備えている。

朝日新聞の天声人語に草野心平の、雪の詩が書かれていた。

しんしんしんしん/しんしんしんしん
しんしんしんしんゆきがふりつもる・・・・
これが92文字繰り返されている。

子供の頃、何日も何日も降り続く雪は、全ての音を消し、本当に世界はしんしんの世界になる。

でも、今は、車の音や生活音など諸々の音が聞こえ、無音の世界は少くなった。

本当に降り積もる雪には、雪の降る音がある。

子供の頃、そんな雪をあかずに見ていたことがある。

積もる雪は、砂粒のような粉雪だ。
その粉雪が、サラサラサラサラと音を立てて降る。
濃密度の粉雪は、世界を白灰色の一色に染める。
隣の家も屋敷林も、輪郭も分からない。

私が中学生の頃、38(さんぱち)豪雪の時、そんな雪が何日も何日も降り続いて雪は電線を越えた。

そんな積もる雪の時は、風も無くそんなに寒くない。
だから、じわじわと雪が降り積もって行く様子を、テレビも無かった子供の頃、じっと見つめていた自分が懐かしい。

今年、15年も空き家になっていた実家を、更地にしたので、どれだけ雪が降っても心配しなくてよくなった。

私が小学生の頃に、国語に載っていた詩が今でも忘れられない。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ
      




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幼稚園児の芋掘り

2022-11-13 20:08:26 | Weblog
知り合いの農家さんが、毎年、春と秋に都心の幼稚園児たちに芋掘りを提供している。

そのお手伝いを、南ちゃんが請け負っている。
もう、何年も手伝っているので、慣れたもの。

今回は、いつもの半分の人数しか参加していない。丁度、入学試験にぶつかったのだという。

駅前のいつもの場所でバスから降りてきた元気な子どもたちと、山の畑に向う。

 



畑に着いて、準備をし話を聞いて、さっそく大根、小松菜、2種類のカブ、そしてサツマイモの収穫。





 



大根とサツマイモは、ちょっとお手伝い。

その後は、ミカンを10個収穫。

 



昼食後は、里山の中を散策してドングリ拾い。



最後は、シイタケの収穫。

 



駅に戻り、トイレを済ましてバスに乗ってバイバイと帰って行った。

用がない限り、お手伝いしている。
とっても楽しい。

 















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動くガンダム

2022-08-27 12:35:52 | Weblog
娘の家族と横浜のホテルで一泊した。
娘の夫は、学校も職場も横浜なので、「横浜はどこに行きたい?」と聞かれ、

「動くガンダムに行きたい」

息子が小さい時、ガンダムがブームになっていて、父子でよくガンプラを作っていた。

夫は、アニメを見ない人だったけど、プラモデルや物を作るのは大好きだった。

息子と娘の机は手作りで、長い板の机を二人で使っていた。

私のたくさんあるマンガ本の為に、マンションを買ったら、直ぐに本棚を作ってくれた。マンガも大きさがまちまちだったりするが、それに合わせて作ってくれた。

夫が亡くなった今も、本棚は何十年前からの、そして今の新しいマンガが並んでいる。
娘に、「イロイロなものを断捨離するのはいいけど、マンガだけは捨てないでね」と言われている。

夫は、いつも子どもや私の事をファーストに考えてくれていた。
思い出すと、胸が痛くなり会っていろんな話がしたい。

お台場に等身大のガンダムが作られた時も、直ぐに二人で行ったっけ。

動くガンダムは、とってもカッコ良かった。































暑い日だった。途中でくたびれた孫のゆなは、途中でお父さんにおんぶしてもらっていた。

とっても楽しい二日間だった。

遠くにお金かけて行くのいいけど、今回みたいにその分のお金を、ちょっとリッチな近場のホテルに泊まるのもいいかな、と思った。
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友達と軽井沢のバラ園へドライブ

2022-06-24 09:01:21 | Weblog

友達3人と、そのうちの一人の息子さんが車の運転でドライブ。

息子さんは車大好き、運転大好き。

買い物大好きなお母さんと、お米を買うために日帰りで新潟へ行ったり、大好きな道の駅巡り25箇所、日帰りに行ったり。お昼に食べたいからと、それだけのために仙台に行ったり。

話を聞いていると、あまりの考え方の違いにビックリする。

そのために、車はアウディで、タイヤの大きさにビックリ。乗り心地が抜群で、9時間ほど乗っていたが腰は痛くならないし、疲れなかった。1日ドライブしても平気なわけだ。

バラ園のバラはまだ満開ではなかったが、綺麗だっった。

買い物大好きな彼女は、お花の苗もいくつか買った。彼女のお庭は、たくさんのバラや数々の花で今あふれている。

私もアスチルベの赤を一鉢買った。実家の庭から持ってきて、3鉢あったが一鉢になってしまったので。

その次は、2箇所の道の駅。

そして、美味しいと行列の出来るチーズ専門レストランへ。「軽井沢ピッツェリア店」

美味しくて、写真撮るの忘れたね、と友達と話す。

その後も道の駅に寄った。

あの八ッ場ダムの近くを通った。

もつ煮の美味しい店があるからと、そこに寄りお持ち帰り用に買った。

そこも行列が出来るお店だそうだ。

土日は車がズラッと並ぶのだそうだ。

もともとはトラックの運転手が食べていた所だったが、今はトラックの運転手が寄りづらくなっているそうだ。

駐車場がそんなに広くないので、トラックを止めづらいからだそうだ。

お持ち帰り用は自動販売機で、3人分。娘の家に持っていって一緒に食べた。本当に美味しかった。

朝9時45分頃、迎えに来てくれて、家に送ってもらったのは、7時過ぎ。

車の中でいっぱいおしゃべりできて、楽しかった。また、行きたいねとサヨナラした。

久しぶりに、遠出した。

 

 

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朝起きて、玄関ドアを開けたら

2022-05-27 09:43:27 | Weblog

朝起きて、いつものように新聞を取りに行こうと、玄関ドアを開けてビックリ。

目の前の外廊下に、大きな毛虫が(ほとんど毛は生えていないが)のたくっていた。

どうしょう、と固まってしまった。

ベランダや外廊下の小さいベランダに、花の鉢植えを多数置いている。

だから、虫がつく事はよくある。

春にベランダにあるバラの幾鉢かの葉っぱに、虫食いの穴が開いていた。

メガネをかけて、一枚一枚葉を裏返して、小さな虫がついている葉をちぎって捨てた。

ゼラニウムにもシャクトリムシがついて葉をたべるので、見付けると割りばしで取って捨てていた。

でも、こんなに大きな虫は、どうやって捨てようか、考えていると鳥肌が立つ。

と、その時、廊下の手すりに鳥がとまった。

その瞬間、鳥は虫をくちばしでつまんで飛び立って行った。

ビックリ!!

その鳥は、最近、私のマンションの周りによく来ていて、ベランダでもちょこちょこ歩いていたりしている。

南ちゃんの仲間に写真を撮って聞いたら、

イソヒヨドリの雄だという。

ちょっと大き目で綺麗な鳥だ。

でも、ここに虫がいるのをどうして知る事が出来るのだろう。

ちゃんと、その虫を目指して飛んで来たのだから。

鳥の目って不思議だな。

 

 

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朝と夕の雲

2022-04-28 17:14:30 | Weblog

冬は快晴が多くて、あまり雲を撮れなかった。

朝の雲。

夕の雲。

そして満月。

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さくら、サクラ、桜

2022-04-07 09:24:48 | Weblog

寒い冬が終わりを告げる桜の季節がやって来た。

そして、桜が咲く頃に裸の木々が芽吹き、山々が薄い柔らかい緑色にもやって来る。

里山は、縮こまっていた背が伸びて来たように、ちょっと大きくなったように感じる。

新生活が始まる桜の季節は、心が希望と華やかさに溢れて来る。

さくら、サクラ、桜。

私にとっての桜は、どの字が当てはまるのだろう。

この季節は、私の心が涙で溢れる季節でもある。

さくらを、風に舞い上がるさくら吹雪をみると、この青い空の、もっとずっとずっと奥深い蒼い世界で、このさくらを見下ろしているだろう私の亡くなった家族の事を思う。

父も母も、さくらが満開になると、農作業を休んで車で美しく咲くさくらを愛でに、あちこちにでかけていた。

そんな両親の為に、田んぼの一角にピンクの八重桜の苗木を植えたっけ。

田植えをしながら見れるようにと。

亡くなった姉は、私の所に何回も遊びに来ているのに、三沢川の満開のさくらの季節には来ていなかった。

「一度、三沢川のさくら並木を見に来て」

「じゃ、来年に行くね」

でも、姉に来年は無かった。

翌年、さくら吹雪の三沢川を歩きながら、涙を抑えきれず天を仰いだ。

そして、その時に夫は病院のベッドの上で、三沢川のさくらに想いを馳せていた。

転勤族だった私達は、それぞれの場所で桜を見に出かけていた。

東京に戻って来ても、有名な桜の名所に出かけて行った。

でも、今の稲城に住み始めて、三沢川の桜木が大きくなって見事な桜並木になってからは、三沢川しか桜を見に行かなくなった。

その、さくら満開の風景をカメラに収め、夫に見せながら

「来年は、一緒に見に行こうね」と。

でも、来年は無い事を私も子ども達も知っていた。

このさくらの季節になると、亡くなった私の家族たちの思い出に浸りながら、三沢川のさくら並木を歩く。

さくらを見上げ、舞い散るさくら吹雪にかれらの声が聞こえたような気がして、流れる涙をこらえる事が出来ない。

どんなに望んでも、彼らに会う事は叶わない。

そして、いつか私も彼らと一緒に、あの青空のずっとずっと奥の彼方から、この満開のさくらを見下ろすのだろう。

私の子どもや孫が、このさくら並木を歩く姿を。

夜桜。

 

「稲城の梨」の花。

その他の目に付いた花。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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3月11日、東日本大震災が起こった日に。

2022-03-11 12:06:12 | Weblog

今日は、あの東北の大地震と大津波が起こった日。

あの日、何をしていたかはよく覚えているが、あの年の1年間の事は記憶が抜けている。

前年の10月終わりに最愛の姉が亡くなり、辛く悲しく泣いてばかりの日々を過ごしていた。

やっと、少しは周りが見えるようになり、夫と気持ちを変え前を向ける様にと、2月にFC東京のキャンプ地の九州へ旅行も兼て行った。

夫は、何となく疲れやすいと言っていたが、年で運動不足かなと笑っていた。それなりに楽しかった。

そして、あの、地震と津波。夫と声もなくテレビを見ていた。

こんな悲惨な出来事が本当に起こったのかと、呆然とした。

姉は皆に見守られて、ベッドの上で亡くなった。でも、彼らは、と思うと涙が止まらなかった。

その翌々週、南ちゃんの会に協力してくれた、私達がお父さんと呼んでいる方が亡くなった。彼がいなかったら、南ちゃんの会は無かったかもしれない。

悲しかった。南ちゃんの仲間達と泣いた。

今度は、その翌週に夫が体調を崩し、インフルエンザかなと市民病院に行き、入院となった。

翌日入院の用意をし病院に行くと、「直ぐに大きな病院に行ってください」との事で、夫が月1で通っていた府中の都立病院に、救急車で向かいそのまま入院。

その夜、私と子供に「早くて1週間、長くて1カ月」と言われ、呆然とした。

それから、夫が亡くなった5月22日まで、毎日辛い思いで病院に通った。

私は、こんなご時世だし、始めは家族葬でと思ったが、賑やかな事の好きな夫だったので、普通のお葬式にした。

ところが、東北の震災の影響か、葬儀場も火葬場も予約が一杯で、10日先になるといわれた。

でも葬儀社の方が走り回ってくれて、ちょっと離れているが5日後には葬式を出せる事になった。

定年退職していた夫だったが、元会社の人や取引先の人達が、沢山来てくれて、天の夫は喜んでいただろうと思った。

あれから、この日が巡って来るたびに、夫や姉や父母を想い胸がいっぱいになる。

日本は、天災の多い国で、毎年少なくない人たちが亡くなったり怪我をしている。

でも、世界に目を向ければ、戦争でたくさんの人達が命を落としている。

だからウクライナの戦争の映像を見るたびに辛くなる。

あの攻撃の中で子どもたちが亡くなったり、ケガをして泣いているのかと思うと涙がこぼれる。

最近、非常に涙もろくなっている私を娘は笑う。確かに、映画でもドラマでも本でも、そこで泣くの?とよく言われる。

どんな些細な事でも、ふっと姉や夫や父母の思い出が胸によぎるからだ。

比べられない、諸々の日常と非日常の死。

そして、何千人、何万人、何百万人の死、と括られる非日常の死は数字だ。

9.11の犠牲になった3000人近い犠牲者。

でも、確か、ニューヨーク市だったか忘れたが、「9.11テロで亡くなった人達は数字ではない。ちゃんと名前がある」と、全ての犠牲者の名前を読み上げた。

凄く、感動した。

その9.11の犠牲者の一人に、翌週に私の会社に来る予定だった大手証券会社の若き女性がいた。仕事をしながら涙をこらえた事を覚えている。

でも、この戦争で亡くなるウクライナの人達は、数字で終わってしまう。

彼ら彼女ら子供たちには、ちゃんと名前があり、未来があったのに。

大義名分も何も無い愚かな戦争が早く終って欲しいと、強く強く思う。

 

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北京オリンピック開会式

2022-02-05 13:00:30 | Weblog

北京オリンピックの開会式を見た。

夏の北京オリンピックの開会式が、余りにも 〝ザ・中国” ”素晴らしい歴史もある、そして今の中国の技術はどうだ” と、突っ込み所ありの退屈な開会式だったので、凄く興味もって見た。

半年前の東京オリンピックの開会式が、あまりにも酷かったので比べてみたいと。

一言で言えば、中国色のあまり感じられない、素敵な冬のオリンピック開会式だった。日本の方が中途半端な日本色だった。

そして、子供たちは未来、世界は子どもたちが中心、と思える演出に思えた。

よちよち歩きの幼児たちが、氷の上でスケート靴を履き、あるいは雪の上で小さなスキーやスノーボードに乗り、立っては転び、足を出しては尻もちをつき、そのモコモコに着ぶくれてぬいぐるみのような姿が可愛い。

最初に出て来た真っ赤なモコモコの小さな女の子が、小さなスノーボードに乗っただけで転び、その傍でワンちゃんが心配そうに見ている絵が晴天のゲレンデで愛らしい。

そして、子供たちは成長し、だんだん、少しずついろいろな競技が出来るようになって行く。

最後にあの赤い服の女の子が、何日後か分からないが、小さなスノーボードに横向きに乗りちゃんと滑ってる。ワンちゃんが追いかけて行く。

50人くらい?の少年少女たちがギリシャ語で歌うシーンで、皆で歌いながら一斉に右に左に揺れるシーンで、前列の男の子が一人、真っすぐに前を向いて歌っている。あらあら、大丈夫? 可愛いけど、後でしかられなければいいがと。

映像が美しかった。

今の中国の現実とは真逆の風景映像かもしれないが、せめてオリンピックの時だけは、歌われた「イマジン」の世界のように、と思う。

日本だって、これぐらいのシンプルで分かりやすくて、素晴らしいクオリティの開会式を演出出来ただろうにと、凄く残念に思った。

そして、開会式のクライマックスの聖火は、ビックリした。こういう聖火もあるのかと、感激した。

中国に対しては、いろいろあるが、純粋にこの開会式を称えたいと思う。これぞ冬の開会式と思った。

そして、中国映画は見た事ないが、このチャン監督の映画を観てみたいと思った。

でも、東京パラリンピックの開会式は良かった。

閉会式はもっと最高に良かったと思った。

自分の為に、メダルの為に、記録の為に、国の為にと闘った全ての人達が、その緊張を解き、祭りは終わったんだよ、皆で別れる時が来たんだよ、だから大いに楽しもうよ、踊ろうよ、歌おうよ、と。

祭の後の寂しさを感じさせられたような閉会式だった。

東京オリンピックは、本当にマイナスな出来事が何年前もから一杯あった。でも、私にはパラリンピックの閉会式の、あのオモチャ箱をひっくり返したような、これぞ日本という楽しい演出に救われた。

 

 

 

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雪が降った翌朝

2022-01-08 10:40:31 | Weblog

あら、雪がちらついていると、外を見ていた前日。

午後、気が付いたら雪は家々の屋根を白に変えていた。

雪は、夜には止み、明日は天気になるというので、朝は日陰の道は凍り付いているだろうな、と思う。

朝、雪をまとった里山は、朝日に輝いている。

遠くのマンション群も朝日に輝いている。

豪雪地帯に育った私は、雪が降るといつも小さかった時を思い出す。

テレビもない小さい頃は、小さな村は私にとって全世界だった。

2階まで降り積もる雪は、当たり前の私の世界だった。

今と違い、どこの家にも自家用車などなかった村の冬は、雪が積もるのは当たり前だから、道は人が通る幅に踏み固めるだけだった。

豪雪の時には、人が歩く道は見上げる上にあった。

父は雪の降りしきる朝は、早く起きて新聞屋さんの配達に間に合うように、両隣の家までかんじきで踏み固めて道を付ける。

そして、屋根の雪降ろしをしたり、春からの農作業用の準備をしながら、春の雪解けを待つ。

私は、隣の家も庭の木々も全てを白の世界に覆い隠しながら、ただただ空から降り続ける粉雪を見つめていた。

世界を無音の世界に変え、サラサラサラとささやくように、衣擦れのように、そして目に見えるように1センチ、2センチ、3センチと降り積もり、嵩を増していく様子を、飽きることなく見つめていたあの頃。

自然と一緒に生きていたあの頃。

もう2度とあの世界を見る事は出来ない。

田舎でも、全ての家に自家用車が1台2台とある今、雪は邪魔者。

今は、どこの家にもある小型の除雪機で雪を吹き飛ばす。

車が動かなければ生活出来ない今の時代。

もっとも、温暖化なのか、田舎に住む妹に聞いても、雪は昔のようには降らなくなっているという。

どんなに今年は雪が多いといっても、もう、2度と38豪雪のような事はないだろう。

私が育った昭和の子供の頃は、遠い遠い昔話になった。

 

 

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