今日は皆既月食があると言うので、5時半頃から空を見ていたが、雲が月のあたりにかかっていて見えない。
何回か、玄関に出て月を見る。
やっと取れたのが、この写真だけ。
夜、望遠で写真を撮るのは難しい。
今日は皆既月食があると言うので、5時半頃から空を見ていたが、雲が月のあたりにかかっていて見えない。
何回か、玄関に出て月を見る。
やっと取れたのが、この写真だけ。
夜、望遠で写真を撮るのは難しい。
早いもので、あれから20年。
毎年、9月11日になると、思い出す人がいる。
会った事も無く、名前も覚えてはいないけど。
私が勤めていた会社は、従業員が10人ちょっとの小さな会社だった。
それでも、顧客は日銀から日本の金融機関・PCメーカー・金融に関わる省庁・・・。
その日の夜、夫と声も無く燃え上がるビルを、2機目が衝突するシーンを見ていた。
翌日、会社に行って、9月・10月中に来社するお客さんの名簿を全て打ち出して(その当時は個人情報保護法とかは無かった)家に持って帰った。
そして、新聞に載っていた犠牲になった日本人の名前をチェックした。
該当する人が一人いた。
日本の大手の総合研研究所に勤める女性。きっと、将来有望な優秀な人だったのだろう。
翌日会社に行き、社長にそれを告げた。
直ぐに社長と常務は出かけて行った。
胸の中がザワザワして、しばらくは仕事に身が入らないような日々が続いた。
私にも娘がいたので、親の気持ちを考えるととても平常心ではいられなかった。
毎年、9月11日が来ると、一人、心の中で彼女の冥福を祈っていた。
夫が亡くなり、お仏壇が家に据えられてからは、夫や両親・姉と会った事はないが、彼女の冥福も一緒に祈っていた。
もう、20年が過ぎたのか、何と月日の経つのが早いのだろう。
会った事も、名前も覚えてはいないが、毎年、この日には、どんな女性だったのだろう、生きていればどんな人生を送ったのだろう、どんな家庭を作ったのだろう、と想像しながら冥福を祈っている。
コロナワクチンの2回目を打って2日目。
友達が、先週ワクチンの2回目を打って、当日は何とも無かったが、翌日に熱が出て腕も痛くて寝ていたと言っていた。
私も、1回目は痛くも無く痒くも無く、何の反応も無かった。
でも、2回目は、娘にも言われて家でジッとしていた。
でも、ほとんど何ともなかった。
そうだワクチンを打ったんだ、と思い出すとちょっと腕が痛いかなと思う程度。
娘が、心配しなくても良かったね、と笑った。
買い物にも散歩にも行かなくて、家で溜まったビデオを見たり本を読んだり、久しぶりにのんびりしていた。
今月末に、友達と会う約束をしている。
ちょっとは、安心しておしゃべりが出来るかな。
この時期、毎年、梅を買って来て漬ける。
梅を漬ける作業をしていると、大阪に住んでいた頃を思い出す。
子どもがまだ小さくて、下の子は幼稚園に行っていた。
その頃は、結婚したらほとんどの女性が専業主婦だった。
だから、ママ友との付き合いが濃かった。
集っては、おしゃべりしたり、ランチを食べに行ったり、お料理教室を開いたり、手作りでいろいろ教えあって作ったり、東京に転勤で戻って来るまで、本当に楽しい充実した毎日を過ごしていた。
その時、皆で集まって手分けして毎年作っていた10キロの味噌は、東京に来てからも家族に手伝ってもらって作っていた。
でも、仕事を始めたりして、作業が大変なのでいつも間にか作らなくなった。
でも、梅漬けだけは続けている。簡単なので。
本当は、天日に干して梅干しにすればいいのだろうが、私は梅漬け。
漬け上がった梅は、素朴で酸っぱくて美味しい。
そして、梅酢をお料理に使ったりしていて、この梅酢の為に梅干しにはしていない。
梅ー3キロ 塩-300g 焼酎ー3カップ 梅の2倍の重し
梅を水に浸ける。本当は一晩だけど、半日超。
ザルにあげる。
ヘタを取って水分を拭き取る。
ボールに梅を入れて焼酎をふって塩をすり込み、容器に梅・塩・焼酎を何回かに分けて順番に入れるが、私は、全部まとめて入れてしまう。
重しをする。
このまま晩秋まで。
容器や重しは綺麗に洗って、水分をふき取り、焼酎で消毒のため拭き上げる。
毎年、この時期の梅漬けは楽しい作業。
この梅が漬け上がる頃には、去年の梅が残り少なくなっている。
時に、友だちにあげたりして、無くなって市販の梅干しを買う事があるが、なかなか原材料塩だけの物って無い。
亡くなった母の作った、真っ赤な梅干しが食べたいな。
本当にすっぱくて、思い出しても唾が出る。
テレビを見ていた時に、速報が流れた。
また、どこかで地震かしらと見ていたら、田村正和の訃報を知らせる速報だった。
そういえば、最近、彼をテレビで見てないなと思った。
それから、テレビで彼の特集が組まれ、過去の作品の映像を流したり、彼の人となりを語っていた。
私も、世の女性と同じで、彼のドラマに夢中になっていた。
私の中で、一番の彼の作品はなんと言っても
映画 「子連れ狼」
私は、映画の時代物はあまり見に行ったことが無い。
でも、これは絶対に見たいと、夫を誘った。
私の誘いは絶対に断らない夫と一緒に見に行った。彼は、テレビの時代物は好きで良く見ていた。水戸黄門シリーズは大好きで再放送も見ていたっけ。
過去の子連れ狼の拝一刀とは、真逆の拝一刀だった。
私にとって、ただひたすら美しい拝一刀だった。
細かい物語やシーンは忘れたが、大五郎の手を引き、真っ白な雪の野を歩くシーンは、今でも私の中に残っている。胸がジーンとするほど美しかった。
殺陣のシーンでも、日本刀を構える姿、激しく刀を合わせ戦う姿の美しさ。
全てが、どうすれば、拝一刀の田村正和を美しく見せるか、を追求していったのではないかと思う映画だったと私には思われた。
私は本当に感動したけど、時代劇が好きな夫には、今一つだったのではないかと思った。
田村正和さんのご冥福をお祈りいたします。
私は、野鳥の名前はよく分からない。
仲間でも、野鳥に詳しい人がいて、鳴き声で名前を教えてくれるが、覚えられない。
山で作業していても、鳥の鳴き声に、「ほら、あそこに止まっているよ」と木の上の方を指さして教えてくれるが、見つける事が出来ない。
朝、外で、美しい鳥のさえずりが聞こえて、ベランダに出てみる。
どこで鳴いているのか、分からない。
あっちこっち見て、ふと、目の前の電線を見たら、鳥が止まっていた。
直ぐにカメラを持って来て写真を撮る。
あなたの名前はなあに?
ネットで調べる。
メジロさん?
次の日にも、外から綺麗な鳥の鳴き声がするので、ベランダに出てみた。
今回も、電線を一本一本舐めるように見たら、いた!
また写真を撮る。
あなたの名前はなあに?
ネットで調べる。
カワラヒワさん?
毎日、いろいろな小鳥のさえずりを聞くが、めったに姿を見つける事が出来ない。
夕飯を食べていたら、テレビで綺麗な満月が、と言っていた。
直ぐに玄関を開けたら、大きな満月が近くのマンションの傍に出ていた。
そういえば、玄関を出ると、直ぐ目の前にまん丸の大きな満月を見る時は、いつ頃だったかな。
私と夫は、家を買おうと決めてから、それこそ、数え切れないほどの物件を見に行った。
私の勤めている会社に一本で行ける路線の、京王線と有楽町線の沿線のマンションを探していた。
住んでいた川崎から、今のマンションを見に行った時、車の両側の景色に、ここは本当に東京都?と思うほどの田舎風景だった。
後で知ったけど、梨畑がずっと続いていたのだ。今は、梨畑が減って寂しい。
着いた京王線の稲城駅の周りには、何にも無かった。
ロータリーにはバスとタクシーが止まっていて、寂しい風景だった。
コンビニと酒屋とパチンコ屋があった。郵便局もあった。
でも、直ぐ目の前に緑豊かな里山が続いていた。
それを見て、「あ、私、ここに決めた。ここに住む」と夫に言った。
ロータリーの傍に建てていたマンションは14階建て。そこから2本目の道の角に立つマンションは7階建て。どっちにしょうかと考えたけど、里山に近い奥のマンションにした。
そして、もう一つの決め手になったのが、大きなまん丸の満月だった。
会社の帰りに、通勤の事を考えてそのマンションを見に行った。
電車を降りて階段を上って改札を出た瞬間、息をのんだ。
駅の周りは何も無く、はるか遠くの都心が目の下に広がり、遮るものも無い広がりに街の灯りを煌めかせていた。
そして、その街の灯りの上に、ちょうど目の前に、大きな大きなレモンイエローの満月が浮かんでいた。
とても本物のお月さんとは思えないほどの、不思議は眺めだった。
あの時の感動を、いまでも忘れない。ここに住む最後の決め手だった。
今は、駅ビルも建ち、もうあの満月を見る事は出来ない。
でも、季節によっては玄関を開けると、目の前に、あの大きなレモンイエローの満月を見る事が出来る。
20011年3月11日金曜日
あの東日本大震災から10年が経った。
あの大震災は直接的には関係ないが、私にとっては、忘れる事の出来ない年となった。
大好きな姉と夫が亡くなって10年の月日が経ったのかと、あらためて辛い日々を思い出す。
大好きな姉が突然亡くなったのは、大震災の前年の晩秋だった。
入院の知らせを聞いて駆けつけた時に、お医者さんは「もって1週間、もしかしたらもっと早くかも」とおっしゃった。
私は、直ぐ家に帰り、旅行鞄に諸々詰めて、家族にいつ戻るか分からないと告げて、新幹線に飛び乗った。
それからの一週間を病院で寝泊まりした。個室にはシャワールームがあり、シャワーを浴びながら泣き、洗濯機回しながら泣いた。
手を握り、夜中に足をさすり、何を話していただろうか。
最後の言葉が
「ふみちゃん、緑が光る林の中を、真っ赤なワンピースを着た少女が楽しそうに走っているよ。ウソと思うかもしれないけど、本当に見えるよ」
と灯りを落とした天井を見つめて言った。
その翌日、昏睡状態におちいりモルヒネを投与され、静かに美しいまま逝った。その時、一筋の涙がほほを伝って落ちたのを今でも鮮明に思い出す。
山や自然が大好きだった姉は、「死んだらお墓はいらない、海や山に眠りたい」と言っていた。だから長男が「お墓、どうしょう」と言った時に、3人の息子に、お母さんはそう言ったけど、お墓は残された人の気持ちで決めていいと思う。私は手を合わせて思い出す場所があったらいいなと思うけど、と言った。
そして泣いて泣いて年が明け、ずっと夫や子供たちは気を使ってくれていた。
そろそろ、前を向かなければと思い、2月に夫とFC東京がキャンプしている宮崎に三泊四日で行った。
磐田とのプレシーズンマッチを、旦那さんの転勤で鹿児島に住んでいるサッカー友達と応援し、半日観光で桜島にも行った。夫との最後の思い出になった。
悲しみに、時には涙しながらも、日常の諸々の生活に戻って行った。
そして、あの東日本大震災が起こった。
あの黒い津波の惨状を中継するテレビを、夫と声もなく見つめた。こんな想像を絶する最悪の災害があるのだろうか。まして原発まで関わって来るとは。
なにもかもが、色彩を失ってしまったような日常に、何をどうしたらいいのだろうと、想いながら気持ちが揺れた。
その翌週に、南ちゃんの会の大切な仲間が突然亡くなり、またまた涙の溢れるお葬式となった。
その週の土曜日に、夫が「しんどい。風邪ひいたのかも」と言う。本当に辛そうなのでタクシーで病院に行き、入院となった。
翌日病院に行くと、「直ぐに大きな病院に行ってください」と救急車で、時々診察を受けている府中の都立病院に行った。
駆けつけた子供たちと、あり得ないような話を主治医に告げられた。
「早ければ一週間。持っても1カ月」と。
毎日毎日、病院に通い、それでも何とか頑張り、5月の20日に夫が私に言った。
「ヤタガラスが前を歩いている。こっちにおいでというように」と、空中を指さす。
絵が大好きだった夫が紙にその様子を、震える手で書いた。彼にはカラスに見えるが、私にはただの何本も交差した線にしか見えなくて悲しかった。
その翌日、姉と同じように「最後の治療に入りますので、今日から誰か夜も付き添ってください」と言われ、息子が付き添った。
その夜中に電話が来て、娘とタクシーで駆け付けた。
昏睡状態の夫の手を握り、私達は傍にたたずんでいた。そして、いつ息を引き取ったか分からないような静かな最後だったが、私達にはその時が分かった。
私も子供達も、何かが夫から抜けて行ったように感じた。ふっと夫の緊張が解けたような・・・。
子供達と同時に、後ろに控えていたお医者さんと看護婦さん達を振り返った。
5月22日に夫は旅立った。
悲しみの2011年は、大震災と夫や姉の事以外は、私の中に記憶がない。
その年の手帳を見ると、びっしりと予定や出来事が書いてある。読んで、ああ、こんな事もあったのかと思うけど、思い出せない。
今年の11日は、特に今年は溢れる思いの、涙の一日を過ごした。
娘の家族と出かけたけど、雨が酷かった。
雷が鳴り、ゆうなに「怖くない?」と聞くと「大丈夫」と。
小さい頃のゆなは、本当に怖がりだった。
雷が鳴っても、花火でも大きな音は、怖くてギャーギャー泣いた。
豆まきの頃、スーパーに飾ってある鬼のお面にも「怖い怖い」と泣いた。
今年の保育園の豆まきにも、先生の鬼が怖くて泣いたそうだ。
「鬼、怖かったの?先生だよ」
「でも、怖かったの。だから泣いたの」
本当に怖がりで、何でこんな事に?思う事でも怖がって泣いていた。
ギュッとしがみついて、抱っこされて泣いているゆなは可愛かった。
娘の家族とユニバーサルに行った時には、ベビーカーの屋根を降ろして隠れるようにして、泣いていた。
今日も、雷が鳴ると、握った手に力が入ったが、泣かなかった。
娘が小学4年生の時、大阪から東京に転勤で戻って来て直ぐの頃、私が仕事に行っていた時。
学校から帰って一人で家にいたら、突然、雷が鳴り出して、まだ、よく知らない隣の家に怖くて逃げ込んだ事があったっけ。
夕方、ふっと外を見て「あ、雨がやんでいる。もしかして」と東の空を見たら、虹が出ていた。
大きな、ハッキリとした二重の虹。
カメラには収まりきらなくて、外側の薄い虹がカメラにはよく映らない。
太陽が沈んだ西の空。
去年の暮れも子供たちが集っての、いつもの年の暮れ。
千葉に住んでいる息子は、「コロナだし、行くのどうしょうかな」と言っていたけど、車での往復ならいいんじゃない、と来る事にした。
両親も夫も姉も亡くなって、家族の少ない私には娘家族や息子が来ないと寂しい。
久しぶりのご馳走(?)作りは、何かウキウキして楽しい。
大人だけと違い、小さい子供がいるだけで、場が和んで話が弾む。
いつもは、暮れは紅白だよね、と流しっぱなしにしているけど、今年は紅白は録画して、ゆなに合わせる。
ゆなを預かった時、子供たちが小さい頃遊んでいた人生ゲームを出して遊んだ事があった。
だから、ゆなが「人生ゲームやりたい」と言うので一緒に遊んだ。
今度は、ちゃんとルール通りに。平成の方の人生ゲームで。
年の瀬は、やっぱり家族が集ってくれないと、お正月が迎えられないように思う。
当分、コロナは収束しないと思うけど、少しは良い事がありますようにと願う。
去年は、本当に遠出はしなくて、家の周りでウロウロしていた。
唯一、遠出したのは、味スタ。
久しぶりに東京を応援に行った時には、そんなに遠い距離では無いけど行き帰りをタクシーで行った。
次からは電車で行ったけど、でもほとんど行かなかった。
横浜戦は、ゆなを連れてタクシーを利用した。横浜ファンの婿さんの上ちゃんに「ゆな連れて行っていい」と聞いたら、いいというので。
最終戦だけは、仲間も来て楽しかった。
明日は、その仲間も国立に集まる。
席はバラバラだけど、気を付けて応援し、帰りはちょっとだけ会えるかな。
ベランダから快晴の空を見ていると、日本が世界中が大変な事になっているなんて、信じられない。
私の周りで、友達や知り合いの周りで、仕事関係の周りで、コロナに感染したと聞かないので、よけいにそう思うのかもしれない。
でも、今年も、油断しないように生活して行こうと思う。
久しぶりの賑やかな集まりも楽しいけど、みんな帰って、また一人の静かな生活が始まってホッとしてる自分もいる。