あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

実は周りは観光客だらけなのです

2008年12月12日 05時27分44秒 | 鎌倉
今日の更新は12月7日の鎌倉。その4です。今日でラストです。

鶴岡八幡宮に到着したら、境内で結婚式の真っ最中でした。
ラッキ~。
巫女さんの舞や神主さんの祝詞。青い直衣を着た楽士が古典雅楽の「越天楽」を生演奏してます。
雅~~~~。
観光客にはラッキーで、皆バシャバシャカメラに納めてます。
………。
私もその一人です。上の画像は望遠で写したのでわかりませんが、舞台を観光客が囲んでます。
普通の結婚式場は、この式は両家の家族と親戚だけで厳かに執り行われる場面です。
この家族、なんで鎌倉が観光客で溢れるこの日に結婚式を執り行ったんじゃろか?
舞台の周りには観光客に混じり、披露宴に招待された人々もいます。一目でそれとわかるのは、振り袖やドレスアップした女性や、礼服姿の男性の衣装を身につけているから。
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色づいた大銀杏

2008年12月12日 05時18分54秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
11月25日に鶴岡八幡宮を訪れた時はまだ青かった。それから約2週間。こんなに黄色くなりました!

11月29日の記事で、青い葉っぱの銀杏の木を紹介しましたが、同じ木?って感じです。観光客も溢れてるしな。北鎌倉を回った人も、鎌倉駅周辺を観光した人も、私のように金沢街道を回って来た人もここへ集った後、JR鎌倉駅へ向かう。
時刻はもう夕暮れ。15時45分の撮影。西日に照らされた大銀杏は綺麗です。
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地図なんかなくても歩けるんです

2008年12月12日 05時12分47秒 | 鎌倉
私の持っている地図は小田急の駅に置いてあった「これぞ古都鎌倉、名刹をゆったりとまわる」のチラシ裏のなんちゃって地図のみ。
でも鎌倉は観光客に優しい場所。上の画像のような標識が「どっちへ行けばいいのかな~?」と迷いそうな四辻や曲がり角にはたいがい立っている。しかも外国人観光客にも優しい英語・中国簡体語・ハングル語の表記付き。トイレの有無・距離なども表す親切対応。
すばらしい~~~!!!
もし、標識が歩いても歩いても見かけないようだと、目的には着かない間違った道です。速やかに引き返した方が無難。
鎌倉は山が近いので、京都のように道は碁盤状には作れない。曲がった道や右折左折して進むので、うっかりすると東西南北も怪しくなる。そして京都に比べ観光ポイントが近いので、徒歩移動も増える。
要所要所にある標識は、実にありがたいものなんである。
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ホントにこれが頼朝の墓!?

2008年12月12日 05時03分34秒 | 墓所巡り
ショボい。ショボ過ぎる
長い急階段をようやく登ってあるのが、コレだけなんである…。
確かに源氏は天下をとった。京の都で一番を張っていた平氏一族をコテンパンにして一掃する程、徹底的に勝った。
でも考えてみれば、鎌倉幕府を開いた源頼朝の一族の天下は短い。鎌倉幕府は「いいくにつくろう」だから1192年に成立。頼朝はその7年後の1199年には落馬して急死している。
後を次いだのは頼朝の子で源頼家。時に18歳。若すぎた。まだまだ天下は治まっておらず、結局失敗し、将軍職を剥奪されて1204年には暗殺され、鎌倉幕府の実権はこれを境に北条氏に移行した。
源氏最後の将軍は頼朝の子・実朝だが、彼は鶴岡八幡宮の大銀杏の前で27歳で暗殺された。その時1219年2月13日。
つまり、頼朝の一族の源氏が天下を取ったのは、30年に満たない。
実朝を殺した公暁も翌年に死亡して、源氏の将軍の家系は断絶した。調べてみると女子方の血筋も出産時に死亡してるので、根絶やしになってるのね。
うきゃ!
家が栄えるのは、代々続く事が必須。
頼朝は、父・義朝が戦に敗れて伊豆に流された流人で元々鎌倉に地盤を持たない。父・義朝の敗戦で彼の一族はこの時既にほぼ消えていて、一族と呼ばれるような勢力も残ってない。
成長してから平氏打倒の兵を上げたのは1180年の頼朝33歳の時。北条一族の豪族の長女政子との婚姻後。
12年後、天下を取ったのは45歳の時。その間残っていた数少ない親族やライバルとして成長した弟の義経も粛正したりするもんだから、頼朝の親族はどんどんゼロに近づいていく。
長らく不遇をかこってた頼朝は、元から財力はなかったハズ。頼朝が行動を起こしたのも、豪族の北条氏一族の首領の娘、政子と結婚して財布が出来てから。その後は戦戦の日々だっただろうから、(例え実際に戦ったのは弟の義経だろうとも)無駄金は使えない。
エジプトのファラオのように、生きているうちからお墓を作るならともかく、日本のお墓は本人が死んだ後、その子どもか妻かが作るのが普通。んで墓を守る人が絶えたら、例え天下を取った人でもこんなショボいお墓になるのかも?
ちなみに、頼朝の妻は名高い北条政子。彼女のお墓はだんなに比べてどうなの?
私はそこへまだ行ってない。
でも調べてみたら、寿福寺にあるらしい。岩を削り横穴を作った「やぐら」に石灯籠のお墓が残っているそうだ。
むむむ??
それも結構地味だよね。
なら北条一族のお墓は?
調べました。
立派です。後日画像を紹介しようじゃないか!

あ、書き忘れてた。
上の画像の石塔は、江戸時代に薩摩藩藩主の島津重豪が建てたんだそうです。なんか、3歳で死亡しているハズの頼朝の長男(政子の子ではない)が実は生きていて、島津氏の祖となったという怪しい伝説があるかららしい。
また、明治時代の廃仏毀釈で、頼朝の墓の前にあった法華堂は壊されたんだって。うう~む。例え過去に天下を取っていても、天皇家から見て敵だったからか?容赦ないなあ。
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。って感じ?
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