都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

喜久屋ビル

2006-10-08 | 中央区  

 中央区新富にたたずむ喜久屋ビルは興味深い過去を持つ建物だった。

喜久屋ビル(森田製薬回効散本舗本社ビル)
所在地:中央区新富 2-4
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:RC5
Photo 2006.10.3

 喜久屋ビル関係の記事を辿っていったら、この建物を建てた会社の創業者のお孫さんが書いている「ヒーリングタイム」というBlogに辿り着いた。

 近年「喜久屋ビル」という名前だったこの建物は、森田製薬回効散本舗 本社ビルとして、1928年(昭和3)に竣工したという。同Blog内の「旧回効散ビル近況」という記事には、建設当時の写真が掲載されている。「京橋区新富町回効散ビルヂング昭和三年落成」とあるこの写真を見ると、1Fがコンビニになり、屋上に小屋が増築された以外は、外観は現在とほとんど変わっていないことが分かる。

 また、交差点に面した部分は、車一台分程度の駐車スペースになっていたが、建設当時の写真を見るとそこには平屋の小さな建物(交番か?)があったことも分かる。角地に面しているのに、角を空けて変則的なL字型をしているのが、以前から不思議だったのだが、角地に別の建物が建っていたからこうなったのだと分かり、すっきり納得。

 古めかしい外観を持ち、角地に立つL字型の建物は、以前から不思議な迫力を発散していた。現在の建物と違って階高が高いので、5階建てといっても隣のマンションと見較べると7階建て相当で、意外にスリムで背が高く目立つ。古い建物とコンビニのややミスマッチな取り合わせもあって、一度見ると記憶に残る印象的な建物だった。

 近年は10階建て以上のマンションやオフィスが増えた新富町界隈だが、古い建物は木造の2、3階建てが多く、その中ではRC5階は背が高い。現在は比較的静かな新富町という界隈に、昭和初期に製薬会社の本社ビルが建てられたこともやや不思議だった。だが古い地図を見ると、このビルが建つ交差点がある通りには市電が通っていたことが記されており、この付近には新富町の電停があったようだ。往時は市電が通る賑やかな場所で、交通の便もかなり良かったのだろう。そう考えると回効散ビルがここに建てられたのも納得できる。

5F窓まわり、軒先の意匠
Photo 2006.1.28

 回効散ビルは、第二次世界大戦中は食肉会社の所有となり、戦後は日本海運所有で海運ビルと呼ばれ、更に昭和28年(1953)~47年(1972)の約20年間は、全国石油会館と称されたという。「Web新富座」というHP内の記事には、現在、千代田区永田町にある、全国石油業協同組合連合会(全石連)という組織が、以前にこの建物を所有していたと、書かれている。全石連が移転して、その後、現在の喜久屋ビルとなったのだそうだ。

 全国石油会館という、これまたなんだかたいそうな組織の建物だったことも有るというのも、ちょっと不思議だった。全国と名の付くものは、たいがい虎ノ門とか京橋とか、オフィス街的な場所にあるような気がするのだが、それがなぜか新富町。もちろん新富町は東京都中央区なので、全国の本部があっても悪くはないのだけれど、現在の新富町はマンションや小規模な会社、会社の支店などが多く、本社とか全国本部はあまりない。

 新富町という街の位置づけは、昔と今では少々違うのかもしれない。

1Fにコンビニが有った頃の様子
Photo 2001.6.17
1F東南角:ビル入口付近の様子
Photo 2006.1.28

 ところで、肝心の回効散というお薬、昭和40年代生まれの私は今まで全然知らなかった。だが私の母は、そういえば以前そんな解熱鎮痛薬があったと言い、ちゃんと記憶していた。確かに現在でも薬の本などを見ると回効散という薬は載っている。街の薬屋さんなどでは見かけることは無くなったが、昔は割合にメジャーなお薬だったのね。

 現在の製造・販売元は「龍角散本舗」なんだそうな。龍角散なら知ってるんだけどな・・。なんでも、私の小さい頃に商標権が龍角散に譲渡されたらしい。

 薬の製造会社と聞くと、大きな工場やビルを想像してしまうが、回効散ビルヂングは、なんだか愛すべき街角の本社ビルだった。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス 
コメント (8)
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