都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

榎町界隈 階段見取り図

2006-10-02 | 新宿区  

 九月末に取り上げていた一連の道は、宗柏寺の周りをぐるっと回っている。この前の擁壁と墓地の間の道から、今回の小階段を通ると、墓地の西側に回り込んだ末にやはり早稲田通りに出る。

 文言でいろいろ書いても、この道の様子はうまく説明できない。言葉でうまく表現できず苦労するより地図を描いてしまった方が簡単。先日紹介したサイト「地図Z」でまた地図を描いてみたのだが、残念ながらこれでは細かなことが描ききれない。

 さてどうしたものか? Illustratorとかで描いてもよいのだが、ピーッと直線が描けちゃうとなんだか気分が違う。でもって結局、手書きにしてみました。

 住宅地図を見ながらペンで描いた見取り図を、スキャンしてフォトショップで彩色。これで位置関係とか向きとかがだいたいわかるかな?。でもどっちが上の方か書き込むのを忘れちゃった。断面方向も載せるので、擁壁のマークと合わせて判断して下さい。

 さて、何故このようにお寺の周りをグルッと回る道ができてしまったのか?。ごらんの通り南方向には抜けられません。でも江戸時代の切り絵図と比較してみると、決定的な回答ではないが、周回道路の発生と関わりのありそうな事柄が少し分かる。

 幕末期の地図によれば、高台側は酒井若狭守の屋敷地。宗柏寺の敷地は現在とほとんど同じ模様。宗柏寺と酒井若狭守の屋敷地の境界線がどこにあったかは、御府内備考などを丹念に見れば判るのだろうが、手元の資料では不明。酒井家屋敷の敷地は宗柏寺に比して4~5m高い場所にあった。現在は二段になった擁壁で区切られているが、江戸期の敷地境界は、恐らく斜面で樹林地になっていたと想像される。あくまでも推測だが、宗柏寺の墓地が高台に近い斜面上部まであったとはちょっと考えにくい。酒井家屋敷の外れの樹林地が斜面下の墓地近くまであり、そこまでが酒井家屋敷だったのではないかと思われる。(やはり正確には御府内備考や土地宝典などによる確認が必要なのだが。)

 明治以降、屋敷が無くなり細分化し宅地化する際に、細かな街路が造られた。その過程で宗柏寺の墓地東側の小径や、高台側から下りる階段が造られたのではないだろうか。

 さて一方、宗柏寺の西側と南側には、妙照寺、大法寺という寺院があった。妙照寺は手元の資料では行方不明。移転したか、合併したり廃寺となったか分からない。とにかく現存しない。大法寺の方は1909(明治42)に移転して、現在は杉並区松ノ木3-33にある。

 宗柏寺の西側にはこの二つの寺院へ至る参道状の道が江戸期から存在していた。そして明治末に大法寺が転出し、跡地が宅地化された際、もとの大法寺境内に道が追加延長された。

 肝心な部分、つまり宗柏寺の南側で、二つの小径が小階段を介して接続するに至った経緯、これは手持ちの資料だけではやはり分からない。両方の道が宅地化に伴って延長されていき、最終的に近接したために接続したのではないかと、勝手に想像しているのだが、本当のところは不明のまま。

 でもこのように、江戸期の土地所有や土地利用、道路の状況が、明治以降、現在に至るまで、街の姿に影響を及ぼし続けているということは事実である。今回のお寺の周囲を回る道も、敷地をそのつど区画して小さな街路を作っていった結果できたということなのではないかと考えている。

#階段・坂 新宿区  #地形  #寺院
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする