都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

JR下の特異空間

2006-11-11 | 港区   

 都営浅草線泉岳寺駅そば、高輪大木戸跡のそばに知る人ぞ知る異空間がある。

高輪橋架道橋下
所在地:港区港南2丁目と芝浦4丁目の境(Google Map

 JR山手線、新幹線、品川操車場の下を潜り抜ける長さ200mほどのガード。

 ここが特異な空間になっている最大の理由は、写真で見れば一目瞭然、ガードの高さが極端に低いのだ。車輌の通行制限高さは1.5m。多少、余裕を見ているので、ガードの高さじたいが1.5mというわけではないが、それでもかなりの圧迫感。特に東側150mぐらいの区間の天井高がかなり低い。身長170cmの私もここでは頭がぶつかってしまうので、最低高は160~165cm程度ではないだろうか。

 ネットで調べてみると「提灯殺しのガード」という、すごい異名がついているという。提灯というのは、タクシーの屋根に付いているランプのこと。このガードがあまりにも低いため、その提灯が天井に引っ掛かって壊れてしまうのだそうだ。このエリアを走るタクシーは、ここのガードに合わせて、あらかじめ低い提灯を使っているという話さえある。確かにタクシーの提灯は天井すれすれをかすめるように駆け抜けていく。たまに見かける、大きな三角形の広告パネルを付けたタクシーなどは、絶対に無理。

 提灯の明かりや、ブレーキランプの明かりが、天井に反射して映り込むガードって、そうそうない。

 途中に何カ所か路面の凹凸があるのだが、ここでは多くの車が少し減速する。凹凸で車が上下して、万一天井に擦るといけないと思うかららしい。しかしその他の部分では一方通行であることもあって、皆かなりの速度で走っていく。天井の圧迫感から一刻も早く抜け出したいという心理もあるのかもしれない。地震で万一崩れたら、逃げ場もなくペシャンコになってしまうんだろうなという嫌な想像が頭をよぎる。

 一番西側では頻繁に山手線の電車が行き交う。頭上2mぐらいのところを、何トンもある車輌が疾走し、雷のような大音響がガード内に響き渡るのはかなり恐い。音と振動で思わず首をすくめてしまう。そんなことしてもどうにもならないのはわかっているのだが。

天井高が低いので照明が側面に付けられ、ナトリウムランプで車内が激しく照らし出される。

 今までここの名前は知らなかった。所在地をもとにGoogleで検索してみたら、高輪橋架道橋という名前だった。長くてトンネルのようになっているので、隧道かともちょっと思ったのだが、地面を掘って造ったものではないので、やはりトンネルや隧道ではなく、道路に架かる橋という扱いになっていた。現場で見落としていたのだが、ガードの梁にちゃんと高輪橋架道橋と書いてあるらしい。

 ただ、架道橋はJRの橋のことを指すはずなので、道路の方は正確には架道橋下道路ということに恐らくなる。またこの架道橋は、いくつかの橋の複合体なのだが、幅が200m以上、それに対して長さは6~8m程度という、非常に変則的な「橋」でもある。

 品川駅周辺はJRを東西に横切る道が極めて少ない。北は田町に近い札の辻橋、南は品川駅より南側の八ツ山橋、そしてこの高輪橋架道橋。この三つしか車や自転車が往来できる道がない。歩行者は、現在は品川駅構内に東西自由通路が完成したので、随分便利になったが、以前は徒歩でこちらまで迂回する人もいたらしい。

 さて、この高輪橋架道橋という名称でGoogle検索してみると、あるわあるわ・・・。かなり多くのBlogやサイトで取り上げられている。テレビでも取り上げられたり、映画のロケ地にもなっているらしい。

自転車に乗る人も身をかがめる。

 ところで「高輪橋」ってなんだろう? 高輪架道橋でよさそうなものなのに、高輪橋架道橋になっているところからすると、高輪橋って地名だろうか?。「たかなわばし」というところにある架道橋。あれ? そうなると高輪橋っていう橋はあるの? 住宅地図で調べてみたが、近辺には高輪橋は無かった。気になりだして、昔の地図を出してみる。

 御存知の方も多いだろうが、東海道線は昔は高輪あたりで、海の上を走っていた。少なくとも明治の終わり頃までは、陸地に近い浅瀬に築かれた土手の上を汽車は走っていた。その後、埋め立てが進み昭和初期には内陸化してしまったようだが、昔は線路の西側、すなわち高輪側に河岸があったようだ。明治末(1909)の1/10,000地図を見ると、車町河岸という名が記されている。河岸があったのなら、当然東海道線の堤防にも切れ目があって、そこから船が入ってきていたのだろう。昭和12年(1937)の地図では、ちょうどこのガードの箇所に、国鉄の下を潜り高輪大木戸近くの小さな船溜まりへつながる水路が残されていることが分かる。

 古い地図を見て言ってるだけなので、確証はないのだが、高輪橋架道橋はもともとは、海に架かる高輪橋という鉄道橋だったのではないだろうか。土手の堤の上を走る汽車はそこで鉄橋を渡っていた。鉄橋の下は河岸へつながる水路だった。

 戦後になり、ここでの荷揚げが無くなり、水路の必要性は失われた。その一方で、海側の埋め立てが進み、鉄道を挟んだ東西交通の必要性が増した。そこで水路を閉鎖し水を抜き、そこに道路を造ったのではないだろうか? 高輪橋はその時、道路に架かる架道橋になったが、橋自体は変わらなかったので、高輪橋という名はそのままに、高輪橋架道橋という名になった。水路とこの道路の位置が一致するのと、そうすれば鉄橋を架け替える必要性が無いことから考えると、この推測はあながち外れていないように思われる。

 天井高が低い理由はあまりよく分からない。人や乗用車が通れれば良いと考えたからという他に、地下に下水管などの埋設物があって、これ以上掘り下げられないからでもあるようだ。海に近いので、昔の技術だと、これ以上掘ると水が出て大変だったのかもしれない。

 なぜ鉄道をもっと高い位置にしなかったのかとも言われるが、もともと海だったところに造った堤だったことを考えると、当時は高架にする必要性が無かったことも想像に難くない。海沿いの陸地とだいたい同じ高さにしておけば、潮をかぶることも多くはないし、高くしようとすればするほど大規模な堤を造らなければならなくなって建設費がかさむ。そのようないくつかの理由から現在の高さは決められたのだろう。

 低いガードは他にも数々あり、もっと低いものもあるようだが、徐々に改良されて減っているらしい。確かに少々不便ではあるのだが、ちょっとぐらいこういう場所があってもいい。天井高が低いだけで、こんなにも空間の印象は変わるものなんだなと、改めて感心させられてしまう。天井が高くて清々しく圧倒されるスペースは最近増えていて、それはそれでよろしいことだが、一方で、潰されてしまいそうなぐらいの圧迫感を感じるこの空間も、新鮮な驚きや、緊張感をもたらす。百聞は一見に如かずというが、この空間から得られる感触は写真で見ただけではダメで、やはり現場で体験しないと、体感的に理解できないものだろう。

#街並み 港区  #夕景・夜景  #道  #鉄道
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする