都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

桂屋旅館

2008-03-05 | 新宿区  

 タカシマヤタイムズスクエアそばの旅館は昨年取り壊されたようだ。

桂屋旅館
所在地:新宿区新宿4-1-8
構造・階数:木2
備考 :2007年に解体
Photo 1996.12.9

 屋根上に高く組まれた鉄骨組広告塔が取り付けられ「桂屋旅館」という赤いネオンサインが妙に目立って異彩を放っていた。昼間はまわりの派手でキラキラした建物の中で木造二階の建物は埋もれてしまっているのだが、夕方から夜になると、そこだけ暗く沈み込んで見える一角の中に赤いネオンサインが浮かび上がり、妙に目立つ。タカシマヤからの買い物帰りのカップルなどがたまに気づいて「ねぇあれ何?、なぜこんなところに旅館があるの?、かなり怪しいよね。」と話しているのも時々見掛けた。

Photo 2005.12.24

 10年近くが経っても状況はあまり変わっていなかったが、いつのまにか屋根上の広告塔は撤去されていた。その一方で前面の塀の一部が切り取られ、そこに飲料の自販機が設置された。周辺の通行量の増大に伴う変化であろう。

Photo 2006.5.1

 隣地にはマクドナルドの大看板が立ち、スターバックスもでき、周囲はどんどん賑やかになっていった。右奥の家屋も建て替えられてショップになり、杉の木もなくなった。それでも昨年まではまだ旅館はちゃんと営業していた。

 だが、昨年秋に通りかかったら現地は更地になっていた。現在、跡地では鉄骨5階建ての商業ビルが建設されている。

 新宿駅新南口近くの新宿4丁目は、昔は商人宿と呼ばれていた低料金の旅館や、ビジネスホテルなどが建ち並ぶエリアである。新宿でホテルと聞くと、昔のいわゆる連れ込み旅館的なものを想像する向きもあろうが、ここのエリアのホテルや旅館の大半はどうやらそういうものではない。もちろん連れ込み旅館に端を発するものもあるのかもしれないが、この界隈のホテルはいつしかその系統のものではなくなった。

 そのへんの変化は、戦前から戦後、平成に至る新宿の繁華街・盛り場の盛衰や、その中心地の移動とおそらく関係があると思われる。

 戦前から現在に至るまで、新宿の繁華街の中心は新宿通りだ。ただその重心は多少移動したりしているし、繁華街のエリアや建物規模は劇的に拡大・大型化している。だいたい、戦前には靖国通りはまだ完成しておらず、戦後歌舞伎町となった場所などは女学校のある普通の住宅地だった。

 新宿駅には甲州街道口(現在の南口)が大正期には既にあったが、駅の表口は明らかに東口だった。マイシティ(現ルミネエスト)に建て替えられる前の、大正14年竣工の三代目駅舎や駅前広場は、新宿通りを正面としており、駅からの人の流れはまず新宿通りへと流れ、そこから南北に入り込んでいた。昔の新宿4丁目は、3丁目の新宿通りの南側地区の更に「奥」だったので、人々が流れ着く先とも言える場所だったことが想像される。

 ところが1964年にマイシティが完成し、側面にタクシー乗降場が造られ、中央口と称されるようになると、建前上、新宿3丁目全域は駅の東側正面になり、新宿通りの南側の地区は裏側とか駅から離れた場所ではなくなった。また、歌舞伎町が巨大歓楽街化して、新宿の裏側とか奥というものを一手に引き受けてしまったため、3丁目の歓楽街的な要素は、新宿の中では相対的に小さなものになっていった。

 更に、甲州街道口が南口としてルミネなどとともに整備され、裏口的だった場所が新たに晴れやかな表の空間になり、新宿駅は東口、西口、南口と3方向に正面を持つ巨大駅に変貌した。新宿4丁目は新たに整備された南口のそばとなり、裏口っぽい寂れた雰囲気だった場所は徐々に晴れやかな空間に代わっていく。

 近年の最大の変化は1996年のタカシマヤタイムズスクエアのオープンだろう。この後、この界隈を訪れる人は一挙に増えた。JRの東南口、新南口も整備されて、周辺にはスポーツ用品店のビルなどが次々とできた。東南口のあたりには、私が上京した頃までは木造の飲み屋などがあったのだが、それも今では全く想像が付かない。

 今年2月には、JR東日本が新南口の位置に33F建てのオフィスビル(下層階は商業施設)を建てる計画を公表した。

 写真の東側のエリアにはビジネスホテルが現在も複数営業している。だがそこでも木造旅館街の風景は急速に失われつつある。改めて東京、新宿の変化は速いものだと思う。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 新宿区  #夕景・夜景  #ホテル 
コメント (7)
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