多和田歯科
所在地:中央区 日本橋人形町2-7-13
構造・階数:木・2
建設年:震災後〜戦前
解体年:2021(令和3)
備考 :右隣は三倉屋米穀(株)、2000〜06に消失
Photo 1996.10.6
歯科医院の看板が出ているのだが数寄屋っぽい日本建築で、妙な医院建築だなぁと思っていた建物。いつも見ている下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事で、かつては「三河屋」という「待合」だったという記述を読んで納得。たしかに戦後まもなくの火災保険特殊地図(1947年)には三河屋と記されている。
1階のコーナー部は窓が大きく取られていて、これは歯科医院にする際に改装したのだろう。2階には火灯窓があったり、手摺のある張り出しがあったりして、やはり御座敷建築的。待合から歯科医院への転用というのは珍しくかなり意外でおもしろい。
上写真の右奥は三倉屋米穀店。その奥、写真右端の木の陰は加島酒店。多和田歯科の左側の喜寿司(喜は、七を3つ書くもの)と加島酒店は現在も営業していて建物も現存している。三倉屋米穀店の建物は解体されて現在は5階建てのビルになっている。
Photo 2014.5.4
この界隈はかつては貸座敷、料理屋、芸者置屋がある三業地で、芳町花街と呼ばれた場所だった。最近(2010年時点)では、濱田家という料亭があるのみで、芸者さんは16名とのこと。かつての面影はかなり薄れているが、人形町駅周辺には旧料亭と思しき建物が並ぶ路地もあり、わずかだが往時の雰囲気が感じられる。
Photo 2014.5.6
左側の喜寿司は1923(大正12)創業。木造家屋が建ち並ぶ街並みはかつての花街の記憶を残すものだったが、旧待合の建物も消失して、周辺には高層のマンションやオフィスが建ち並ぶようになっている。
2024.8.26追記
多和田歯科の開業時期は正確には判らなかった。ただ、1953年版の火保図で「待合三河屋」、1963年発行の「全住宅案内図帳」で「多和田医院」とされているので、この間(1953〜63)に待合をやめて歯科になったようだ。
また、上写真の少し後の1997年頃には歯科もやめたようで、この頃以降は、歯科の看板は掲げられていたが、住宅地図では個人宅として記載されていた。
既往記事:人形町 - 都市徘徊blog(2014.7.27)
多和田歯科/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
三倉屋米店、京樽/日本橋人形町2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
花街の紹介(芳町) | 東京花柳界情報舎
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