我が家のピアノは、私が小学校2年生の時に買って貰ったヤマハの古いアップライトです。
もうかなりトシのピアノですが、私が音楽に進むと決まった時、グランドピアノに買い替えるよう、業者が何度も言ってきましたが、どうしてあのアップライトを捨てることができましょう。売ることでも同じです。
ピアノの裏側には、ピアノを注文した父の名前があります。
当時19万8000円だった、とききました。
その頃、大金だったはず。
私が幼稚園にあがる前のクリスマス、母が「サンタさんが届けてくれたよ」と言って箱を振るとかわいい音がしました。
中には真っ赤な玩具のピアノが入っていました。黒鍵は黒く塗っているだけ、それでも毎日弾きました。
幼稚園で歌う曲は全部「ドレミ」できこえてきたので、ドレミで歌っていると、母は黙って近所のピアノの先生のところへ連れて行きました。
年配の先生でしたが、私を膝の上に乗せ、遊びながら鍵盤をさわらせて下さいました。
あまり鍵盤が多いのでびっくりしました。黒鍵が本当にあるのも驚きで、先生の指をはねのけて(なんて失礼なことを・・・)勝手に弾いていました。
家では玩具の赤いピアノからオルガンになっていました。でもまだ鍵盤が足りない、そして今のピアノを買ってくれたのです。
「スタインウエイを買った」という人もいました。でも私はそんなのは会場で弾くものだ、と思っていましたし、うらやましいという気もありませんでした。
小学校4年の時、「海の家」でテレビを見ました。忘れもしません。
有名なピアニストが弾くショパンの「英雄」やリストの「ハンガリー狂詩曲」でした。
海に入ることなどどうでもよくなって、テレビを見て過ごしたのです。
父は私が音楽が好きでも、全く私に興味を示さず、仕事一途でした。
「楽隊!」なんてからかっていました。
母は子供の時から音楽好きで、小学校で音楽の先生がピアノを練習なさっているのを、ドア越しに聴いていて、モーツアルトの「トルコ行進曲だったよ」と・・・母は小学校しか出ていません。
はやく父親を亡くし、母親と多くの兄弟を支えなければならず、長女としてしっかりしなければ、とがんばりました。
父は弁護士か検事になるつもりが戦争で夢破れ、商社マンになっていました。
「ボタンだけ縫ってくれればいいのです」とプロポーズしたくせに、実際は舅と父の妹がいて、大変だったそうで、泣いて近所のベテラン主婦のところへ逃げて気持ちを落ち着かせて帰ってきていたのを知っています。
今日は午前中、「暴走老人」こと父を眼科など近所の医院に連れて行きましたが、ふらつきがひどく、転んだらどうしょう、と気が気ではありませんでした。
待合室では「殺したる!」とかポカッと叩いてきたり、受付の人も私を気の毒そうに見ていました。
それでも父は、先生の前では「お願いします」「ありがとうございました」と挨拶します。
帰宅したらまた暴言とポカッで、私は本気で自転車のヘルメットを買おうと思ったくらいです。
夜、入浴し、寝かせるとニコニコして「よくやってくれるなあ、お前も大変やなあ」とねぎらってくれるのです。
梅雨で乾かない父の衣類にアイロンをかけていた時です。
ヘルメットを買おうと決心していた私の心は、思いがけない父のにこやかな(ずっと怒ってばかり、怒鳴ってばかりの父ですが)笑顔と声に、父に駆け寄って「世界で一番大切よ、かわいいよ!」と言うと大喜びでした。
たまに「オアシス」ってあるのですね。