ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

世代分裂を招くのか・・・「都構想」のツイートなどから考える

2015年05月24日 | 政治

 最近のネットで気になることは「老人」を「悪」のように絨毯攻撃していることである。
いつから日本はこうなってしまったのか。
今日もある保守関係の会に参加した。ある保守チャンネルで有名な60代半ばの講師が「学生運動世代の70代前後は」と批判する。
その講師は「そういう私も老人の部類に入りますが」と言いながら、保守の敵はその「老人たちの世代」であるように言う。
あとで私は質問したが「そういうデータがあります」と言う。
どんなデータなのか見たいものだ。また思想信条の違いによりここまで断定するのも、しかも人格否定する雰囲気が恐ろしい。

「老人・団塊の世代」を攻撃することが、それほど「正義」なのか。
70歳前後というと、終戦前後のころ生まれた、あるいは育った世代である。
終戦後の貧しい日本で多くの子供が「芋の子を洗う」ようにひしめきあって育ち、また多くの兄弟姉妹、祖父母らと共に生活した人が多い。
義務教育が終わると「集団就職」として故郷を離れて大都会に来て懸命に働き、そして結婚し、家族を養った。
大学に進学できる人はそんなに多くなかった。高卒が恵まれたほうかも知れない。まだ中卒で仕事についた人が多かった。
定時制高校へ通って働きながら勉強する人もかなりいた。仕事がきつくて学校を続けられないと悩んだ時は同じ境遇の同級生が励ました。
似たような境遇の勤労学生らが、励ましあいながら卒業まできたことを喜び合い、その後も助け合ったときいた。
一方、大学生は「安保闘争」「学生運動」をして、(それも全部がそうではない)反社会的運動にもなった。

指揮者の岩城宏之氏が当時芸大の学生だったころは、ショスタコーヴィチの「森の歌」などスターリン賛歌とみられる曲がもてはやされたようだ。(実際にはショスタコーヴィチは反スターリンであり、スターリン賛歌とみられながら実際は音の組み立ての中で、ひそかに反スターリンであることがわかるのだが・・・「粛清の嵐」の真っただ中であった。)

しかし、そのころの学生もほとんどがその悪夢からさめ、普通の生活をしているようである。
今もなお、戦後教育の影響を受けてそのままを信じている人も多いことは確かである。

この世代の上のかたは、じかに大空襲の中を逃げ回り近親者を失ったり、子供時代に恐ろしい体験をしている。
「戦争」ときくだけで恐怖が蘇るトラウマを持って育ったことも理解し、その上で現状の日本を説明するべきである。
罵倒より丁寧な説明が必要。
しかし説明をすべきマスコミの多くは「反日」という現実・・・。


これらの世代にはいろんな体験をしてきたことも理解すべきである。一面的にとらえてはならない。
そして「保守」は不寛容であってはならない。
安易にレッテルを貼ってはならない。

このような大きな経験を持ちながらも「芋の子を洗うような」混雑の中で育ち、超満員電車に揺られ労働者として働いてきた。
休みどころか、長時間働き続けざるを得ない状況でもあったし、労災もはるかに多かった。
そんな中でもそのころは「老人を敬う」ことが常識でもあった。

今、気になるのはネットでも「老人はさっさと死ね」など軽い調子で書かれ「老」が悪い例えであるような表現が目につく。
これが蔓延し、ひどい言葉とも思わなくなり普通のこととなると、堂々と老人を迫害し、貶める風潮が高まる。
一部の「保守言論人」にもこれが見られることもある。長幼の序、道徳が崩れるばかりでなく、不満を一斉に「老人」に向ける。
大勢でやっているのであまり自覚がない。実に軽く言ってのけるのだ。

これを止めないといけないと思ったのは「都構想」でも「老人は敬老パスを失いたくないから」という言葉が飛び交ったことからも察するように、賢いと思っていた有名なツイッターの管理人すらも「迎合」しているどころか、堂々とツイートしていることである。

昔、日本は生活の貧しさから「姥捨て」の悲劇があった。しかし老親を捨てる子は泣いた。一生悔いただろう。
また山に捨てられても子を思い「帰りは気をつけて」という親。また娘を遊郭に売る親、親孝行のためにそれに従った娘、これが「貧しさ」だった。
しかしそこには「涙」があった。
決してこんな悲劇は繰り返してはならないと思うが、問題は現代の「年寄りはさっさと死ね」「敬老パスを失いたくないのだろう」「年金で暮らしている人の意見より、税金を多く払っている人の意見が通るように」という考えは「今の税金を払っていること」を錦の御旗にし言うことである。
そして「税金で」ということは私はあまり感心しない。もちろん税金を悪用するような場合は別である。
「税金を多く払っている人の意見」が大切というのもわからないではないが、それを堂々と言うのは節操がない。
少ししか払えない人もいる。(税金をごまかしている場合は別で、それは金持ちもいる。)

老人たちもかつては満員電車に乗り一生懸命に働き、家族を養い、また社会に貢献してきたではないか。
どうしてここまで罵倒されるのか、なぜ日本はこうなってしまったのか、と友人に話したら、友人は「アメリカがそうなのよ」って言った。私はよくわからないが友人が言うには「オバマケアのことから老人はさっさと死ね」という風潮になってきたということだ。

日本は「遺産の文化」である。有形無形の遺産を後世に残してきた。
それが「古いものはよくない、変えるべきだ」というようになった。「・・・・・が新しい」という表現が増えた。
老人も生活を倹約して子孫に「美田」を残そうとしてきた文化がある。有形無形の財産、それが今の日本の文化である。

私は老人になったら「敬老パス」はないかも知れないが、使用しない。このような悲しい思いをしてとても使えないだろう。
しかしそう思っても厳しい生活、衰える体力、使用させて頂きたいと思う方々が多いとも思う。
敬老パスごときでここまでバカにし憎み老いた人を貶める「感性のない」日本人が増えたのか。

こんなツイートも・・・あちこちから集めてきた。

・何が弱者のデモクラシーだよ。
単に私利私欲にまみれた老害達が多かっただけのことだろう。
公の為に生きることの出来ない屑が幅を利かすこの国には
最早明るい未来など有り得ないという暗い気持ちになる。

・まあ高齢者の支持と若者の投票権放棄が今回の結果を招いたな。
てか反対理由の一番最初の意見が
敬老パスがなくなるー
とかそれこそ既得権益守りたいだけじゃねぇかってツッコミたくなったな・・・
次の世代になるべく負担を残したくないと言いつつこれだからな(´・ω・`)

・日本の老人達は敬老パスだの無料サービスだの、とにかく優遇されるのが当たり前であると思っている。今回都構想に反対票を投じた老人達は優遇される制度が消滅する事に危機感を覚えてこの様な"暴挙"に出た訳だ。
以上・・・実に悲しい。



私は10年間老親介護をしてきた。見ていて道の障害物もすぐにはよけることができない、考えも自分中心になる、など若いころの親にはなかった老化が悲しかった。親の「老い」は残酷でもあった。でもよく育ててくれた恩はどんなに尽くしても十分ではない、いとしく思った。

そして世間の方々には自分が知らないだけで、どこかでお世話になったと教えられてきた。
ご老人の方が「自虐史観」で若者(これは年が若いだけの意味ではない、中年と思われる人の中でも頭の中はいろいろである)に媚びることなく教え諭してほしい。
また誰もが老いる。「世代分裂」の手に乗ってはならない。



コメント (4)
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【経済討論】日本経済よ何処へ

2015年05月24日 | 桜「討論」・西部ゼミナール

◆経済討論・日本経済よ何処へ

パネリスト:
 宍戸駿太郎(筑波大学名誉教授・国際大学名誉教授)
 高橋洋一(嘉悦大学教授・「政策工房」会長)
 田村秀男(産経新聞社特別記者・編集委員兼論説委員)
 野口旭(専修大学教授)
 松田学(前衆議院議員)
 三橋貴明(経世論研究所所長・中小企業診断士)
 渡邉哲也(経済評論家)
司会:水島総

1/3【経済討論】日本経済よ何処へ[桜H27/5/23]



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