本日8月15日を迎えての主要新聞各紙の社説を確認すると共に、各政党の談話をチェックしていきます。
それら残念な作文や空論に対し、その見識に格段の差が見られる長谷川三千子教授や中山恭子議員の「正論」についても取り上げていきます。(動画の解説)
長谷川三千子氏 http://sankei.jp.msn.com/life/news/130815/art13081503080000-n1.htm
たとへば13年前、いはゆる「神の国」発言なる問題が起つたことを覚えておいでだらうか。当時の森喜朗首相が或る会合の挨拶で語つた「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」といふ言葉が、国中にヒステリックな大騒ぎをひきおこしたのである。
そのとき人類学者の山口昌男氏は、この背景には日本人が「精神的流民となってしまった」といふ事情がある、と指摘した。そしてそれは、日本が、武力でも精神でも徹底的に打ち負かされるといふ「最悪の負け方を経験してしまった」せいである、と氏は述べたのである。
これは敗戦後に折口信夫が「神やぶれたまふ」といふ詩にうたつたのと同じ認識である。この戦争の敗北は日本の神々の敗北でもあり、その結果として「やまとびと 神を失ふ--」といふことになつた--かつて折口信夫はさううたつたのであつた。つまり、日本人は徹底した敗北によつて神を失つてしまつた。だからこそ「神の国」発言は、いはば日本人の心の傷をあばきたてることになり、かへつて人々を逆上させたのだ、とも考へられる。
しかし、はたして本当に、日本は「最悪の負け方」をしたのだらうか? はたして日本の神々は敗れ去り、われわれは神を失つたのだらうか? むしろその最悪の敗北の瞬間に、われわれは初めて、自分たちの神との対面をはたしたのではないか?
(8月15日 産経新聞「正論」より抜粋)
中山恭子氏 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130813/plc13081303400005-n1.htm 敗戦から68年経(た)つ今夏、日本が戦後の占領の軛(くびき)から未(いま)だ脱していない現実に向き合うとき、占領下で押し付けられた制度や考え方を再点検するとともに戦後の日本の歩みを検証し、日本を再構築しなければならないとの強い思いに駆られる。まずは現行憲法施行から70年を迎える2017年迄(まで)には日本の国柄、日本の心、日本の魂の籠った憲法を日本人の手で作り上げ、次の世代のため新たな日本のかたちの礎を築いておきたい。
併せてインフラ整備も喫緊の課題だ。戦後、先輩たちが懸命につくった上下水道、トンネル、橋などの殆(ほとん)どが老朽化してきている。共同溝敷設の全国展開など必要な公共事業を推進し、次世代が安全で、快適な生活を享受できる国土をつくっておかねばならない。
統治機構も再考の時期にある。地方が十分力を付けてきた現在、県単位で、それぞれの特長を生かした自由な発想で地域づくりをすることが望まれる。農業政策も社会福祉も全国一律ではなく、県ごとに特色を出せば、その県の大きな魅力となり得よう。この場合、道州制は無用であり、県に対し、大幅な権限と予算を委譲することを検討すべきだと考えている。
戦後の占領下で採られた措置の中で11宮家の皇籍離脱、外国人の土地取得に関する勅令の廃止、国際情報機関の廃止などについても至急見直さなければならない。(略)
無機質の個を基底に置く社会、個人主義の徹底した社会は非常に孤独なものである。家庭は人間にとって生命を繋(つな)ぐ基本単位であると同時に、日本では伝統、文化、道徳、倫理の基盤であった。祖先を祀(まつ)り、血統を尊び、子孫に伝える日本の国柄を作り上げてきた根幹である家族の温かさを今一度、皆で思い起こさねばならない。
(8月13日 産経新聞「正論」より抜粋)
わたし自身は個というものを追及する先に、社会的孤立・孤独の先に、本当の意味での社会への犠牲や寛容のこころがはぐくまれると信じますが、
ここで述べられる「空虚な個人主義」への批判はわたしも思いは同じです。
空虚な個人主義とは自己実現、
ほんとうの個人主義は常に自己犠牲と結びついてます。
戦前がすべていいわけではない、戦前はいろいろ余裕がなく、国民に自己犠牲を無理に強いたところもあります。
しかし背骨がしゃんとしてこその国家機構なんだという意味では、戦前のほうが、ノーマルな社会ではあったはずです。
そして戦前のほうがずっと国際的で開かれた社会でした。
関心があったのですが、最近youtubeで三国一郎さんが
朗読しているのを見つけ、UPしていました。
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/s/%BB%E4%A4%CE%B8%C4%BF%CD%BC%E7%B5%C1
良くご存じと思いますが、朗読で聴くのもいいものです。
空虚な個人主義、は自分探しとか仰るように自己実現
とか・・・これは大変厳しく、またさみしい冷たいものです。
家族や友人には喜んで自己犠牲もします。
またそれが嬉しくて、相手を照らしながら自分も
そのおこぼれで喜ぶ、父を亡くしてから本当に
そう思います。
国家の背骨とは西田昌司さんの話によく出てくる
言葉でもありますが、今はそれがわかってきている
人が増えてきたような感じがします。
国を思う心も「靖国神社」のことと重ね合わせて
また「尖閣」での一色さんの国士としての男気、
自己犠牲は、自分ですべて引き受けるという覚悟。
日本は素晴らしい、こんな国難にあって目覚めて
きたように思えます。