「たちあがれ日本」の西村真悟氏から最新のメルマガが届きました。
日本海海戦と韓国
No.634 平成23年 5月29日(日)
その時、その時に、書き留めておかなければあっという間に毎日毎日が過ぎる。本日は既に五月末の二十九日。
本日、静岡の清水から大阪に帰り、次のことを五月中に書いておきたいと思う。
それは、五月二十七日から思い起こすことである。
韓国の李明博大統領と中国の温家宝首相が日本を訪れ、菅総理と共に、東日本大震災の被災地を訪れた。そこで三人は、福島の野菜を笑顔で食べ、また、避難施設を慰問した。
中国の権力と中国人がしていること、韓国が民主国家でありながら如何なる欺瞞に満ちた反日教育を続けているか、これらを詳しく知れば、被災地の皆さんは菅と中韓首脳のパフォーマンスの道具立てに使われることを迷惑であり屈辱だと思ったであろう。
その日中韓三首脳は、五月二十二日、東京で会談し記者会見をした。記者会見に臨む三首脳のそれぞれの笑顔、特に菅総理の笑顔が気持ち悪い。
何故なら、同日、韓国の国会議員三名がロシアが不法占拠する我が領土である国後島を訪問するために韓国を出発したが、菅総理は同日の日韓首脳会談で、そのことに全く触れなかったからである。
つまり、韓国国会議員がロシアの法と正義を踏みにじる悪行に協力し協調して我が領土に対するロシアの不法占拠を補強する行動をしているまさにその時、その韓国の大統領に会っている日本の総理が、そのことに何も触れないということは、即ち、彼つまり菅総理は、北方領土に対するロシアの不法占拠を容認しているに等しい。
であるにも拘わらず、彼、菅総理は久しぶりに客がついた安物の芸者のように笑っている。
気持ち悪い、胸くそ悪いではないか。
この卑屈さをどうにかできないのか。
チャーチルが言うように、政治家は歴史を知らねばならない、歴史を知ることによって政治家は使命感を得ることができるからだ、としみじみと思う。
菅氏には、この使命感がないのである。
五月二十七日は、海軍記念日である。
明治三十八年五月二十七日、帝国海軍の東郷平八郎司令官率いる連合艦隊はロシア海軍のロジェストウェンスキー中将率いるバルチック艦隊を日本海の対馬海峡で撃滅した。
これは、我が国が世界史を創った運命の海戦である。何故なら、
「トラガルファー海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救った」
からである(ガルシア「アルゼンチン観戦武官の記録」)。
これによって、韓国・朝鮮はロシアに併呑され消滅するのを免れ、現在、韓国としてあるのである。
つまり、日本人がロシアと闘い勝利したから韓国は、今あるのだ。その時韓国人は、強国ロシアに恐れをなしてロシアに迎合し闘わなかった。
従って、我が国は、正々堂々と、我が国が勝利した日本海海戦によって韓国はロシア領にならず現在近代国家として存在できるのだと認識すべきである。
であるから、この歴史を踏まえて、国後島を訪問した韓国国会議員の行動に関して、我が国総理は、
「韓国国会議員は歴史の恩義を知るべきである。其れを忘れて、百年前と同様にロシアに迎合するのは、韓国の亡国にいたる病が再び発症したと思わざるを得ない。国後島を訪問した韓国国会議員は恥を知るべきである」とのコメントを発し、
丁度その時、東京でまさに会談している韓国大統領に対し、
「ロシアが不法占拠する我が国固有の領土に貴国の国会議員が入るとは、韓国はロシアに荷担してロシアと共に我が国領土を不法占拠するに等しい、侮辱も甚だしい、極めて遺憾である」と抗議すべきであった。
さらに言うならば、朝鮮、韓国とロシアの行動を、常に歴史を背景に、特に百年前の極東情勢と日露戦争を背景に把握する必要がある。
2004年2月、ロシアと韓国は、韓国の仁川港に戦没ロシア将兵の慰霊碑を建て、日本海軍によって殺されたロシア兵の慰霊式をした。
百年前の二月、日露戦争開始に際し、我が国海軍は韓国の仁川にいたロシア軍艦を攻撃し、ワリアークとコレーツという二艦を撃沈した(仁川沖海戦)。
ロシアと韓国は、百年後に、この仁川沖海戦によって戦死したロシア兵は、日本軍国主義の犠牲者であるとして合同慰霊祭をしたのであるが、我が国政府はその時、朝鮮半島・韓国とアジアをロシアの支配から守ろうとした日露戦争の大義を公言し、其れを日本軍国主義が起こした戦争であるとするロシアと韓国の誤った歴史認識を無礼であるとして厳重抗議しておくべきであった。
とはいうものの、国旗国歌法に反対し、日本人を拉致した北朝鮮工作員の頭目であるシン・ガンスの嘆願署名をした菅直人という人物は、反核反原発の反日的左翼、市民活動家であり、結局祖国の歴史を知らず、我が国の誇りある歴史を踏まえて発言できはしない。
そのような人物を総理に選んでしまっている我が国政治の惨状を深く恥じる。
とはいえ、我が国とアジアの運命を決し、さらに世界史を変えた明治三十八年(西暦一九〇五年)五月二十七日の日本海海戦の経緯を次に述べておきたい。
これこそ、日本人が知っておくべき歴史である。
午前四時四十五分
仮装巡洋艦信濃丸、「敵艦見ゆ五四六地点」と打電、続いて「敵航路北北東、対馬海峡に向かうもののごとし」と打電。
午前六時二十一分
連合艦隊司令長官、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動し、之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」と大本営に打電。
午前六時三十四分
待機していた鎮海湾から旗艦三笠を先頭に、第一艦隊および第二艦隊の四十数隻が、敵と遭遇すべき対馬海峡に向けて出動。
午後一時三十九分
連合艦隊がバルチック艦隊を発見
午後一時五十五分
旗艦三笠のマストにZ旗掲げられる。
「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」
午後二時五分
連合艦隊、敵艦隊の前方で北北東に大旋回
午後二時十分
連合艦隊射撃開始。敵との距離六千メートル
午後七時三十分
敵の旗艦スワロフ及び戦艦ボロジノ沈没。
東郷司令長官、主隊による戦闘の終結を指令し、駆逐艦隊による夜戦に移る。
以上の経緯を辿った日本海海戦において、バルチック艦隊は消滅し、ウラジオストックにたどり着いたのは巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、輸送船一隻だけであった。
人的損害は、
ロシア側 戦死五千四十六人、負傷八百九人、捕虜六千百六人。
日本側 戦死百十六人、負傷五百三十八人
なお、この空前絶後の艦隊決戦に参加した軍艦のうち二隻だけが現在も存在している。
一隻は連合艦隊旗艦の三笠であり、現在横須賀に係留されている。もう一隻はロシアの巡洋艦アウローラである。
アウローラは、一九一七年にボルシェビキの支配下に入りネバァ河に配備され、臨時政府がおかれていた冬宮に対する砲撃(空砲)をする。このことから十月革命に寄与したとして革命記念艦に指定され今もネバァ河に係留されている。
以上、平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版に教えられた。(了)
5月27日の海軍記念日を日本人は知らないのですね。教えられていないし、カレンダーにも書きこまれていない・・・これではいけませんね。「クオレ」を読むと、いろんな記念日が(ガリバルディ将軍の凱旋記念日・・・ふふ、これは私の誕生日でございます♪)など敬意をもって子供たちは学校で教えられている様子がわかります。
海軍記念日は給食は「海軍カレー」を食べ、この日のいわれを習い、家で夕食の時に話題にし、テレビニュースでもとりあげる、ということくらいは・・・当然のはずです。「クオレ」ではね・・・。
URLは携帯のですね。今まで何でもなかったのに・・・また試して下さい。
このコメントは私のテストして書きました。