これは大中恩作曲《バスの歌》の一節。私はバスに乗ってもそれほど楽しくないが、都会の電車は楽しくてたまらない。
今回久しぶりに京成線に乗った。
成田空港なんて10年に1~2回しか使わないから、いつ行っても久しぶり。いつの間にか第3ターミナルまでできていて、そこから駅にたどり着くのが、まず大変だった。
しかし、成田空港に用がなければ乗れない「スカイライナー」に乗らない手はない。
小学生の時、京成上野から出発するのを垂涎の眼差しで見つめていたのだが、爾来、過去1回乗れたかな、という程度。
それに、昔より随分早く行けるようになっている。
「こんなに速くなるものか」と、なんとなく思っていたら、駅の掲示板で、新しい路線を作ってつなげた結果だと知って「なるほど」と溜飲を下げたのである。
4社分の路線がつながってのことだという。どのように路線をつなげたのか、窓越しの線路を凝視してみたが、見てわかる感じではなかった。
しかし、新幹線のように揺れず静かだ。ゲージの広さとロングレールのおかげなのだろうが、今時レールの継ぎ目のカタンカタンという音は、ど田舎にしかないのだろうか。
京成線は、あまり乗ったことがなくて詳しくない。だからこそ、一回一回の乗車経験が貴重である。
それでも都区内に入ると、行ったことのある場所を次々通過するから、その確認で大変忙しくなる。
東京にたまに行くと、電車に乗るだけで何故こんなに疲れるのだろうかと思っていたが、つまりは巨大なテーマパークのアトラクションに乗っているからだ、と遅まきながら今頃気づいた。
例えば日暮里で降りて、山手線を待つホームで、オッと思ったことがある。
奥に「京成線」と書いてある跨線橋の塗装が剥げている。板にペンキを塗るのは昭和の流儀だ。
中央の白い柱は(写真ではわかりにくいが)何と左端が切り取られている。
右端はホームの屋根を支えている。どうか長生きしますように、と柱に祈った。
この柱は私が生まれる前に作られている。
まだ鉄が貴重品だった時代に、レールを再利用して作られた柱だからだ。
国鉄時代か、省電時代かまでは知らないのだが(その後知人より、昭和10~20年代だろうとの指摘があった)、九州にもまだ少し残っている。
これは鹿児島本線鳥栖駅。
プラットホームも電車の床が高くなったのに合わせて、かさ上げした形跡が見える。
こういった風景に私は無意識に挨拶している。
そして、貨物専用線に客を乗せた電車が走ろうものなら、心臓が止まりかけるほどびっくりする。そして自分が一瞬にして老けこんでしまってクラクラする。
でも、東京のように目まぐるしく変化する街に、残り続けている「遺構」のようなもの、私は限りない興味を持ってしまうなぁ。
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