標記の表現をした、知人のピアニストがいる。どんな名曲でも演奏会の最後を飾ることはなく、永遠に「前座扱い」だから、である。確かにレクィエム等、声楽関係の大曲以外は、ほとんど前半のプログラムになっている。シューマンやチャイコフスキーの後にモーツァルトというのは、聞いたことがない。
先日、大学の入学式にてモーツァルトの交響曲第40番を演奏した。その後、アカペラの合唱をはさみ、最後に合唱とオーケストラで「大地讃頌」、当初の予定はこれで全てだった。
しかし、数ヵ月前に聞いた話「熊本大学の入学式では、花のワルツを演奏した年はオーケストラの新入団員が多い。」
急遽、上記のプログラムにチャイコフスキーの「花のワルツ」を挟むことにした。それも後半部分の2分半だけである。
さて、入学式で演奏した結果…;
モーツァルトを演奏している時は、次々と入場者がいる。オーケストラといえども、拡声器を使わずに片隅で演奏している状況では、仮にとても音楽的であったとしても、やはりBGMである。
その後、花のワルツ。金管・打楽器が加わり、音量も俄然増加する。バック音楽からフロント音楽(という言葉はないが)に変化する一瞬だ。体育館が演奏会場になり、新入生や保護者が聴き入っていることを、背中で感じた。実際「花のワルツから後の流れがよかったですね。」と言ってきた関係者もいた。
やはり音量は必要だ。聞こえなければ音楽が伝わらないのは当然である。映画「アマデウス」において交響曲第25番が馬鹿でかい音量で演奏されたことを思い出した。 我々の常識では、モーツァルトはあのようにでかい音量で演奏されるものとは認識していない。でもあの音量で、初めてBGMでは無くなる訳なのだ。
今日、大学オーケストラの見学に来た新入生が結構いたらしい。「花のワルツ効果が現れたようです。」と学生から報告があった。決してモーツァルト効果ではない。
かわいそうなモーツァルト!
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