フランス料理などを食べに行くと、
ウェイターさんがテーブルクロスの上に散らばったパンくずを
ササッととりのぞいてくれるのだが、その仕草を見つめながら思う。
どうすればパンくずを散らばらせずに食べることができるのだろうかと。
パンくずが出る。これ自体はやむをえないことであり、
ウェイターさんが美しいダストパンで手際よく掃除してくださっていく様を見るのも楽しいのだが、
お皿がなくなり、今まで見えなかったパンくずの全貌が明らかになると、
隠していたものがあらわになるようでなんとなく恥ずかしい。
ほとんど散らばっていなかった方と同席した折、
「どうしたらそんなにパンくずを散らばらせず、食べることができるのですか?」と思わず聞いてしまう。
「一口一口が大きいからかな」
早速、実践。
いつもより大きめにパンをちぎるものの、一口で食べることができない。
自身の適量に従うしかないか・・・
それでは、パンをちぎる場所をお皿に近いところとし、お皿に受けてもらうというのはどうだろう。
早速、実践。
低い位置で試みたものの、フランスパンはパリパリしているので思わぬところまで届いてしまう。
これもだめか・・・
いや、どこかにフランスパンの核(ここを押せばあまり飛び散らないというツボ)があるに違いない。
と馬鹿なことを思いながら、いまだそのツボ見つからず、である。
が、この挑戦が功を奏し、今日はどれほどの散らかり様かを見るのが楽しみに。
そんなところまで飛んでいましたか! も面白い。
まったくパンくずがないのも現実味がない。
あの時見た美しい散らかりよう、数個パラパラを夢見てフランスパンとの格闘を楽しむ。
前話で水仕事について話したが、水といえば、小学校時代の担任の先生の言葉。
「親の恩は返せても 水の恩は返せない」なぜかこの言葉が忘れられない。
私が子供の頃、通っていた小学校は2年ごとに担任の先生が変わった。
5・6年生の時の担任・後藤先生の言葉だ。
最初先生の口からきいた時、親の恩より?と解せなかったが、
水の恩をどう返せるかを考えた時、返す術なく、
返せないからこそ、大切にしなければならないのだと気づく。
お風呂になみなみお湯をはり、つかった時あふれでる様を見るのもまたよしと言う主人。
さらに、残り湯で洗濯してほしくないと言う。
言われたよう残り湯は捨てているが、もったいない気がして、
残り湯を使いたいと申し出たが、水道料金は変わらないからいいではないかと却下される。
でも、私にとってそれは節約視点だけではなく、
あの時学んだ「水の恩は返せない」精神によるところが大きい。
なぜこの言葉がこれほどまで私のその後の人生に影響を及ぼすことになるのか
不思議ではあるが、ここ最近、洗面所の水について考えている(笑)
バシャバシャと顔を洗ってしまうのだが、
洗面所に飛び散った水が綺麗好きの主人には耐えがたい光景らしく、
水アカになるではないかとよく怒っている。
顔を洗いながら飛び散る水を見、私は水をうまく扱えていないのではないかと思い至る。
最近の蛇口は水の量を微調整しにくいが、出す水の量に勢いがありすぎて飛び散る結果に。
問題は水の出し方だと。
水温を感じても、水音きくことなく。私の水の出し方には趣がない・・・ということを考えている。
熱中症で死に至る場合もあるから怖い。体にとっても水は大事。
不足しすぎていないか、無駄に使いすぎてはいないか。ちょうどよい水分量を心がけたいものである。
私が結婚して思ったこと、それは「女性の手がいつも濡れている」ということ。
炊事洗濯、手を拭いたと思ったら、また水道の蛇口をひねらなければならないことの連続。
(今、蛇口はひねることなく、あげさげで水が出るのだろうが)
一人暮らしも経験したが、洗い物は自分のものだけ、洗うタイミングは自分で、
だから、終わったと思ったら、また、洗い物が出てくる今の状況とは異なる。
妻の手時代より母の手時代の方が水に触れる機会が多く、当然、手が荒れる。
独身女性の手が綺麗なのも、若さだけではなく、水仕事による影響が大きいと思われる。
映画「風の谷のナウシカ」で
「わしらの姫様は、この手が好きだと言ってくれる。
働き者のキレイな手だと言ってくれましたわい」という台詞が私の泣き所であるが、
これを主人に期待するのは難しく、また、営業職ゆえ手先には細心の注意を払いたい。
「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」(石川啄木)
じっと見る、男性は手のひらイメージだが、女性は手の甲。
女性は首と手に年齢があらわれる。 地道にケアしていくしかないであろう。