歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

尾久と「和久井映見」そして映画『息子』都会の端っこで寂れたりします

2007年03月18日 | 映画の話し
続きです。

「尾久」と云うと、「阿部定」だけでなく、想い浮かぶのは「和久井映見」です。山田洋次監督の「息子」に出ていた和久井映見です。

        

都会の「端っこ」の町工場、そのまた「端っこ」の暗い倉庫で、真面目に、健気に、懸命に生きる、尾久周辺を舞台にした映画です。

身体的・・・聴覚障害者、経済的に恵まれているとは云えない条件の中で、「清く、正しく、美しく」生きる姿に感動しました。汚れのない、「聖女」に思えました。

この映画は多数の映画賞を受賞して、和久井映見も助演賞をとりました。この手の「真面目」な映画は、世の中に真面目に感動を与えるのです。

端っこ暮らしの私も真面目に感動しました。やっはり現実には存在しない、「正しい」ストーリーに憧れるのでしょう。

端っこではなく、身体的にも、経済的にも恵まれた観客は、自分の暮らしの有り様と比較して、反省するのでしょうか?

それで、恵まれなくて不真面目で、清く、正しく、美しくはない、私としては、映画の世界を少しだけ覗けるような、そんな期待を抱いて、東京の端っこ「尾久」に来ました。

和久井映見は、鋼材屋の配送係りの「永瀬正敏」と結ばれて、ハッピーエンドになるのですが、映画に出て来た「鋼材屋」は見つかりませんでした。
       
明治通りに面していたような気がしたのですが、この「シャーリング屋」さんが、多少そんなイメージに近い感じですかね。

       
軒下で、風雨にさらされ、赤く錆びた機械が無造作に置かれている風景。いいです寂れます。

       
都電の踏切にも、寂れてしまいます。端っこ感が漂う風景です。しかし、この辺りも町工場は減りました。

製造業からサービス業へ、身体を使う労働から、頭を使う労働への変化。大変ですね。「普通」の「頭」では、「普通」の暮らしができない世の中です。

これまでの世の中、お金の「ある人」は、ある人なりに、「ない人」は、ない人なりに、暮らしてきました。

これからの世の中は、お金のある人は「より金持ち」に、それなりの人は「より貧乏」に、そんな世の中になってきました。

これからは、私のような普通で、それなりの人には厳しい世の中になりそうです。

与えられた環境のなかで、他人を羨むことなく、精一杯真面目に生きていく・・・・・・。

そんな「正しい映画」は、もう絶対に創られないかもしれませんね。

コメント (4)
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