「教頭センセー! お願いです捕まえて下さーい!」
進行方向に、見慣れた痩身白髪の『上官』の姿を見て思わず叫んでしまったけれど、次の瞬間には、そう言えばカエルの解剖は苦手って言ってたっけ、と思い出した。でもこの非常事態に、苦手だから、なんて言っていられない。何としても、一秒でも早く捕まえて麻酔をかけ直してあげないと、追いかけながらあんなシュールな状況を見続けている私の方が、先にどうかなってしまいそうだった。
それにしても、カエルってあんなに飛びまわるの速かったっけ?
指導要領、という名の「虎の巻」には、途中で麻酔が切れて暴れることもある、という注意事項が書いてあった。それを予習してあったおかげか、あの瞬間、きゃあきゃあ悲鳴をあげる女生徒ほどには取り乱さずにはすんだ。でも、お腹を解剖ハサミで切り開かれて内蔵を引きずるというあの状況で、あんなに元気よく跳ね回り、挙句に、麻酔薬のエーテルがこもらないように開けてあった窓から飛び出して、そのまま逃げてしまうなんて予想もしていなかった。私もすぐに窓を越えて追いかければ早かったんだろうけれど、生徒たちの手前あんまりはしたない格好をするのもはばかられるし、日頃厳しく注意しているのに、上履きのまま外に出るのもためらわれて、結局理科室を出て玄関口まで回り道している間に大きく遅れ、こうして高等部の敷地まで追いかけることになってしまったのだ。
でも、教頭先生が何とか止めてくれたら、この修羅場もようやく収まる。その後、100%「死神」のお説教に生命を刈り取られることになるのだろうけれど、このスプラッターな追いかけっこを終了できるなら、それも甘受していいかも。私がそこまで考えて覚悟だって決めたのに、やっぱり無理だったみたい。誰かと談笑していた教頭先生がこちらを振り向いた途端、顔色を真っ青に変えて途端に震えだしたから。
「あ、あ、ああ綾小路先生!」って呼びかけてくる声なんて、完全に裏返って異様に高い。あれ? 教頭先生と談笑していたのはクラス委員長の荒神谷皐月さん? 随分ぎょっとした様子でこちらを睨みつけているけれど、体調崩して休んでいたのではなかったっけ?
「あの中に逃げたぞ!」
すぐ後ろを走っていた榊君の叫びに、私もすぐ我に返った。今は荒神谷さんのことよりも、カエルの事が第一だ。カエル達は怯えて悲鳴をあげる教頭先生を挟みこむように通り過ぎ、ちょうど開け放たれていた、その後ろの建物の扉をくぐり抜けた。私は荒神谷さんを置いて、榊君と、その後ろに付き従う鬼童君、円光君を引き連れて、建物に突っ込んだ。ついでに顔色だけは死神そっくりになっている教頭先生も、引っ張り込むようにして一緒になだれ込んだ。明るい戸外からいきなり薄暗い建物の中に飛び込んだせいで一瞬だけ目がくらむ。そういえば、ここってどこだろう?
「部室棟ですよ」
「へ?」
「高等部の部室棟です。さあ綾小路先生! カエル達はあっちに飛んでいってますよ!」
何故私が考えていることが判ったのか、驚く私は教頭先生に間抜けな返事にもならない返事をしつつも、その骨ばった指が差す廊下の奥へと視線を投げた。
いた!
仲良く編隊を組んで一塊になったカエル達が、奥へ、奥へと進んでいる。目が慣れてくるに従って、廊下の両側にずらりと並ぶ古ぼけたドアやそのドアの脇にかかるクラブ名を記した表札が見える。なるほど、確かに部室棟という建物らしい。そんな数々の部室の前を走り抜けながら、私達もカエルの後を追った。
と、突然カエルの編隊が数匹づつ2手に別れた。その一隊が急に進路を右に転じて、開いていたドアの奥へと吸い込まれるように消えて行く。残りはそのまま、奥の暗闇に向けまっすぐ進んでいる。
「綾小路先生はあの部屋のカエルを何とかなさい! 3人は私について来なさい!」
「は、はい!」
いつの間に立ち直ったのだろうか? 教頭先生が俄然スピードを上げて先頭に立つと、張りのある元気な声で後ろの私達4人に声をかけた。それもやたらと明るい不気味な調子だ。いつもなら、「えーっ!」と不満一杯に顔をしかめて逃げ出しにかかる榊君達も、その声と雰囲気に圧倒されたか、文句一つ言わずに教頭先生の後を追う。私も、命じられるままにそのドアに向けて急カーブを切った。今度こそ御用だ!
部屋に飛び込んだ私は、まず一番奥の窓が開いていて、初夏の爽やかな風が流れ込んで来る様子に怖気を振るった。まさかまた窓から飛び出したかも?! と疑ったわけだが、すぐにそれはないことに気がついた。がらん、とした虚ろな広さが目立つ何も無い部屋に、窓辺に寄せられた椅子が一脚。そして、その前に身を投げ出してうつ伏せで倒れている、女の子が、一人。豊かな緑の黒髪が床に広がり身体を覆い隠しているが、髪越しに見えるその制服は、間違いなく南麻布学園高等部の女子の制服に違いなかった。
そしてカエル達は、その女の子の周りで動かなくなっていた。
私は、カエルを避けてまず女の子の側にしゃがんだ。カエルは多分もう駄目だろう。あんな状態でこれだけの距離を飛び跳ねてきたのだ。その事自体信じられないほどの脅威な出来事だけど、それもここに来てついに力尽きたのだろう。それよりも、倒れている女生徒をそのままには出来ない。たとえ教える学年は違っても、同じ南麻布の生徒だ。
私はそっとその子の肩に手を伸ばすと、仰向けに抱き起こしつつ言葉をかけた。
「貴女、大丈夫? ねえ……?」
うつ伏せで隠れていた顔がこちらを向いた。なめらかな肌にはどこもケガとかはしてなさそうだけれど、と思ったところで、あれ? と私はその顔を凝視した。誰この娘? なんだかよく知っている気がするけれど……。
その瞬間、私は頭を思い切り殴られたような衝撃に、思わず目をつむった。これは、これは、この娘は……!
それは、女の子のすぐ近く、部屋の隅に立てかけてあったとおぼしき一本の棒が倒れてきて、私の頭にためらいなくぶつかってきた衝撃だった。
シャラン、と輪環の打ち合う涼やかな音が聞こえたその時。
私は、目が覚めた。
進行方向に、見慣れた痩身白髪の『上官』の姿を見て思わず叫んでしまったけれど、次の瞬間には、そう言えばカエルの解剖は苦手って言ってたっけ、と思い出した。でもこの非常事態に、苦手だから、なんて言っていられない。何としても、一秒でも早く捕まえて麻酔をかけ直してあげないと、追いかけながらあんなシュールな状況を見続けている私の方が、先にどうかなってしまいそうだった。
それにしても、カエルってあんなに飛びまわるの速かったっけ?
指導要領、という名の「虎の巻」には、途中で麻酔が切れて暴れることもある、という注意事項が書いてあった。それを予習してあったおかげか、あの瞬間、きゃあきゃあ悲鳴をあげる女生徒ほどには取り乱さずにはすんだ。でも、お腹を解剖ハサミで切り開かれて内蔵を引きずるというあの状況で、あんなに元気よく跳ね回り、挙句に、麻酔薬のエーテルがこもらないように開けてあった窓から飛び出して、そのまま逃げてしまうなんて予想もしていなかった。私もすぐに窓を越えて追いかければ早かったんだろうけれど、生徒たちの手前あんまりはしたない格好をするのもはばかられるし、日頃厳しく注意しているのに、上履きのまま外に出るのもためらわれて、結局理科室を出て玄関口まで回り道している間に大きく遅れ、こうして高等部の敷地まで追いかけることになってしまったのだ。
でも、教頭先生が何とか止めてくれたら、この修羅場もようやく収まる。その後、100%「死神」のお説教に生命を刈り取られることになるのだろうけれど、このスプラッターな追いかけっこを終了できるなら、それも甘受していいかも。私がそこまで考えて覚悟だって決めたのに、やっぱり無理だったみたい。誰かと談笑していた教頭先生がこちらを振り向いた途端、顔色を真っ青に変えて途端に震えだしたから。
「あ、あ、ああ綾小路先生!」って呼びかけてくる声なんて、完全に裏返って異様に高い。あれ? 教頭先生と談笑していたのはクラス委員長の荒神谷皐月さん? 随分ぎょっとした様子でこちらを睨みつけているけれど、体調崩して休んでいたのではなかったっけ?
「あの中に逃げたぞ!」
すぐ後ろを走っていた榊君の叫びに、私もすぐ我に返った。今は荒神谷さんのことよりも、カエルの事が第一だ。カエル達は怯えて悲鳴をあげる教頭先生を挟みこむように通り過ぎ、ちょうど開け放たれていた、その後ろの建物の扉をくぐり抜けた。私は荒神谷さんを置いて、榊君と、その後ろに付き従う鬼童君、円光君を引き連れて、建物に突っ込んだ。ついでに顔色だけは死神そっくりになっている教頭先生も、引っ張り込むようにして一緒になだれ込んだ。明るい戸外からいきなり薄暗い建物の中に飛び込んだせいで一瞬だけ目がくらむ。そういえば、ここってどこだろう?
「部室棟ですよ」
「へ?」
「高等部の部室棟です。さあ綾小路先生! カエル達はあっちに飛んでいってますよ!」
何故私が考えていることが判ったのか、驚く私は教頭先生に間抜けな返事にもならない返事をしつつも、その骨ばった指が差す廊下の奥へと視線を投げた。
いた!
仲良く編隊を組んで一塊になったカエル達が、奥へ、奥へと進んでいる。目が慣れてくるに従って、廊下の両側にずらりと並ぶ古ぼけたドアやそのドアの脇にかかるクラブ名を記した表札が見える。なるほど、確かに部室棟という建物らしい。そんな数々の部室の前を走り抜けながら、私達もカエルの後を追った。
と、突然カエルの編隊が数匹づつ2手に別れた。その一隊が急に進路を右に転じて、開いていたドアの奥へと吸い込まれるように消えて行く。残りはそのまま、奥の暗闇に向けまっすぐ進んでいる。
「綾小路先生はあの部屋のカエルを何とかなさい! 3人は私について来なさい!」
「は、はい!」
いつの間に立ち直ったのだろうか? 教頭先生が俄然スピードを上げて先頭に立つと、張りのある元気な声で後ろの私達4人に声をかけた。それもやたらと明るい不気味な調子だ。いつもなら、「えーっ!」と不満一杯に顔をしかめて逃げ出しにかかる榊君達も、その声と雰囲気に圧倒されたか、文句一つ言わずに教頭先生の後を追う。私も、命じられるままにそのドアに向けて急カーブを切った。今度こそ御用だ!
部屋に飛び込んだ私は、まず一番奥の窓が開いていて、初夏の爽やかな風が流れ込んで来る様子に怖気を振るった。まさかまた窓から飛び出したかも?! と疑ったわけだが、すぐにそれはないことに気がついた。がらん、とした虚ろな広さが目立つ何も無い部屋に、窓辺に寄せられた椅子が一脚。そして、その前に身を投げ出してうつ伏せで倒れている、女の子が、一人。豊かな緑の黒髪が床に広がり身体を覆い隠しているが、髪越しに見えるその制服は、間違いなく南麻布学園高等部の女子の制服に違いなかった。
そしてカエル達は、その女の子の周りで動かなくなっていた。
私は、カエルを避けてまず女の子の側にしゃがんだ。カエルは多分もう駄目だろう。あんな状態でこれだけの距離を飛び跳ねてきたのだ。その事自体信じられないほどの脅威な出来事だけど、それもここに来てついに力尽きたのだろう。それよりも、倒れている女生徒をそのままには出来ない。たとえ教える学年は違っても、同じ南麻布の生徒だ。
私はそっとその子の肩に手を伸ばすと、仰向けに抱き起こしつつ言葉をかけた。
「貴女、大丈夫? ねえ……?」
うつ伏せで隠れていた顔がこちらを向いた。なめらかな肌にはどこもケガとかはしてなさそうだけれど、と思ったところで、あれ? と私はその顔を凝視した。誰この娘? なんだかよく知っている気がするけれど……。
その瞬間、私は頭を思い切り殴られたような衝撃に、思わず目をつむった。これは、これは、この娘は……!
それは、女の子のすぐ近く、部屋の隅に立てかけてあったとおぼしき一本の棒が倒れてきて、私の頭にためらいなくぶつかってきた衝撃だった。
シャラン、と輪環の打ち合う涼やかな音が聞こえたその時。
私は、目が覚めた。