円光は、肉塊に埋められつつも、これが最後とばかりにかっと目を見開いた。その刹那である。初め、円光はそれを幻影の残像かと思った。人垣を越えたはるか彼方、月光を浴びてぼおっと白く浮かぶその姿。白一色の指し貫に烏帽子。つややかな緑の黒髪はきりりと後ろに束ねられ、降り注ぐ月の光をきらきらとはねた。紅ふんを帯びたような顔ばせに、なまめかしくも鮮やかに朱を差した唇。そして何よりも、見る人をして吸い込まれずにはいられない漆黒の大きな瞳。円光は目をしばたかせた。
(まさか?!)
円光は息を呑んだ。幻影だと思っていたその姿が、ゆっくりと此方に向けて近づいて来る。円光は確信した。
「麗夢殿! 来てはいけない、逃げるんだ!」
円光の叫びは、白拍子に身を固めた少女によって完全に無視された。円光は、一瞬麗夢までが祟海の毒牙にかかったのかと疑って背筋を寒くさせた。だが、それは円光の杞憂だった。麗夢は歩みながらすっと腰から一本の棒を取り出すと、両手で摘むようにその端を持ち、反対側にあどけなさが残る唇をつけた。
初めは微かな音色だった。円光の常人離れした聴覚を持ってしても、並みいる郎党達の喧噪を縫ってその笛の音を拾うのは困難だった。しかし、次第に熱を帯び、力強さを増す旋律は、やがて全ての耳に染み込むように辺りを支配し始めた。それに併せるようにして、徐々に郎党達の動きも静まり、遂に微動だにしなくなった。
麗夢に一番近い一人が、まず眠り込むように崩折れた。その一人を手始めに、ゆっくりと、まるで沖から波が一つ打ち寄せるかのように、郎党達が倒れていった。静かに寝息を立てて本来の眠りに帰る男達の間を、麗夢は舞でも舞うかのようにふわりと進んだ。完全な静寂が訪れ、よりはっきりと笛の奏でる調べが人々の心に広がった。
「な、なんだこの笛は?!」
麗夢の笛がもたらした静寂に、場違いな声が上滑りしていった。祟海は、心の奥に封印していた不安を現実に呼び戻さずにはいられなかった。
(まさか、これが、夢守なのか? この女が?)
徐福伝説の影に付きまとうもう一つの謎。富士文書にはその痕跡すら幽かな謎の一族「夢守」。榊を発狂させようと仕組んだ悪夢が失敗した時、そして鬼童にその存在について注意を喚起された時に、祟海はもう少し注意深く考えるべきだったのだ。だが、圧倒的な力で自分の全ての呪力を封じてしまうこの笛の音に出会うまで、祟海はその重要性に気づけなかった。そして今、耳をふさいでもいっこうに消えようとしないその旋律が、祟海の頭の中を恐怖と混乱にかき混ぜたのだ。
「と、智盛、あの笛を、あの笛の音を止めるんじゃ!」
最後の頼みの綱ともいうべき鎧武者に向けられた悲鳴は、むなしくその兜を通り過ぎた。肝心の智盛もまた、祟海の支配から逃れつつあった。暴力的な膂力を誇った剛腕はだらりと垂れ下がり、憤怒の炎を燃やした目も、誇らかに猛々しくもはばたいた赤い旗指物も、まるで山火事が鎮火したようにその力強さを失った。自分の術が何も通じない恐怖が、祟海を初めての敗北感に追い込んだ。遂に祟海までもが黙り込み、この世から音など無くなったのではないかと思われるような中、麗夢はゆっくりと智盛に近づいた。気絶した佐々木、呆然と見送る榊の間を抜け、声をかけたいのに息を呑むばかりの鬼童と円光の前を通り過ぎ、一体地面を踏んでいるのかと疑うほどに白く抜けた素足が、智盛の巨体の前に立ち止まった。
ふっと笛の音が止んだ。麗夢は笛を仕舞うと、彫像のように動かなくなった智盛の顔に両手を伸ばした。けなげに背伸びする白魚の指が智盛の面にそと触れた。面は、紅葉の枝を離れる容易さで、智盛から落ちた。
「智盛様」
面の下から現れたのは、鬼面からは想像できない程美しく、高貴な香りを漂わす一人の若者の顔であった。麗夢の奏でる笛の力であろうか。怒りを忘れ、理性を取り戻したその瞳がゆっくりと目の前の少女を映し、端麗な唇が微かに揺れて相手の名前を紡ぎだした。
「れいむ・・・。麗夢か? 生きていたのか?」
「はい」
麗夢の目がそのまま巨大な湖と化し、持ちきれなくなった分がつとその頬に二筋の流れを生んだ。智盛も感極まった涙を流し、二人は一番望んでいた筈の互いの顔を、はっきりと見ることが出来なくなった。
「智盛様!」
「麗夢!」
二人は同時に互いの名を呼ぶと、ひしと固く抱き合った。思えば屋島の合戦の折り、智盛の身代わりに麗夢が敵の矢を受けて以来の再会であった。麗夢が九死に一生を得て屋島の寒村で療養に努める間、平氏は急坂を転げるように滅亡への道を突き進んだ。壇ノ浦後、麗夢は智盛存命の噂だけを頼りにあちこちを放浪し、ここに今やっとその念願が叶ったのである。だが、今、麗夢はただ再会の喜びに涙するばかりではいられなかった。麗夢のもう一つの使命をここで果たさなければならないのだ。ややあって麗夢は涙を拭い、智盛のやさしい顔を見上げて言った。
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