自分が議員の立場となって約12年、議会と議員のあり方について、いろいろと振り返ることがあります。
2010年8月に三重県議会と三重県議会改革推進会議の主催で、大阪で開かれた第6回全国自治体議会改革推進シンポジウムを聴きに行きました。
その中で、橋下徹氏(当時大阪府知事)と三重県議会の三谷哲央氏(当時議長)のやり取りがあったのですが、会場から「議会には議決責任がある」という主旨の発言が出た際、橋下氏が「あなたはそうかもしれないが、現実、議会には何も言わず立ったり座ったりだけの方もいるではないか」という主旨の返答をされました。
自分は2007年に議員になって以降、議決の際、意見があるときは討論に登壇していたので、橋下氏の発言には、非常にうなづくものがありました。ですから、このとき以降、より議決に対する責任意識と、自分の考えの説明責任を意識して、提案議案の審議と議決に臨んでいます。
“説明責任”という言葉について、議会・議員には二つの大きな視点があると思います。ひとつは、議案提案や日々の業務などをはじめとした行政側の“説明責任”を、チェック機関として審議などを通じて求めていく姿勢。もう一つは、議決にあたって、なぜ自分がそのような判断を行ったのかに対する“説明責任”で、議決後はもちろんですが、議決に臨む際も重要と考えます。“説明責任”を求める姿勢、議決に対する“説明責任”、そのどちらも公開の場で行うことが基本と思うところです。
また2011年1月に、名古屋市公会堂で市議会リコールに関係する公開討論会が行われ、河村市長による扇情的な発言はもちろんですが、それだけでなく、実際にリコールに動いた状況がどのようなものなのか、それを目にする意味も含めて聴きに行きました。
そのとき、ある種異様な空気を感じました。財政的なことを冷静に話しても、それに対して感情的な言葉が会場から飛び交ったり、それは、くすぶっているところに、煽り立てるように息を吹きかけられ、正義感のようなものを含めながら憎しみがふくれあがったような、そんな感覚でした。
終了後にパネリストの方を個人的に非難する言葉が投げかけたりがあったのですが、それに対して、会場を後にする人がつぶやくように「そういうことを言うのはだめだ」ということを言いながら通りすぎられたことを見て、ポピュリスト的な政治運営の問題を痛感しました。
これらばかりでなく、たくさんの現場で学んだり、多くの先進的な議員の方々や、多くの学識者をはじめとした方々との交流の中から、今の自分があることを実感します。