散歩の途中でのスナップ。携帯替えてから普段の写真はiPhoneXs。 CanonEOS6D FUJI X70はサブに
散歩の途中で… お腹がすいたよ~♪
天草の旅(その11)「サンはらいっぱい」で夕ご飯
天草灘に沈む夕日を眺めながら、上島北部の松島にある「天草大王バル サンはらいっぱい」に到着
軽いバゲットサンドに始まり、お刺身や宮崎の炭火焼きのような鶏の脂で燻した焼き鳥、、、
これが「天草大王」の手羽元
〆の鶏飯まで美味しくいただきました
お店の名前についている『天草大王』というのは、かつて熊本で飼育されていた国内最大級の鶏で、その美味しさや肉質の良さから主に「博多の水炊き」用として大変珍重されていましたが、昭和初期に絶滅。その後、熊本県農業研究センターにおいて10年間という長い歳月を掛けて、ついに国内最大級の幻の地鶏「天草大王」の復元されたそうです!
「大王」の名に相応しく、雄の最大のもので背丈90cm、体重約7kgと堂々とした風格が特徴で、一般のブロイラーが2.2kg前後なのに、「大王」は約3kgとその大きさも後で出てくる手羽元で実感しました (^^;
「大王」の名に相応しく、雄の最大のもので背丈90cm、体重約7kgと堂々とした風格が特徴で、一般のブロイラーが2.2kg前後なのに、「大王」は約3kgとその大きさも後で出てくる手羽元で実感しました (^^;
軽いバゲットサンドに始まり、お刺身や宮崎の炭火焼きのような鶏の脂で燻した焼き鳥、、、
これが「天草大王」の手羽元
〆の鶏飯まで美味しくいただきました
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天草の旅(その10)可動式の昇降橋=「本渡瀬戸歩道橋」
10月10日の天草の旅の続きです
時間が許せば、牛深まで行ってみたかったのですが、夕暮れも迫ってきたので後ろ髪を引かれながら天草下島から、ちょっと珍しい可動式の昇降橋=「本渡瀬戸歩道橋」を横目に天草上島へ、、、
私たちの車が走る「天草瀬戸大橋」の長さは700m。有明海と八代海を結ぶ海路で船の往来が多く、高さを確保するため両端がループ橋となっています。この橋にも歩道はあるものの、両側は急勾配な坂道。そのため、自転車や昔のリヤカーでは渡るのに一苦労でした。そこで歩道専用に架橋されたのが上の写真の「本渡瀬戸歩道橋」。船が通る時は中央がせり上がって、下を船が通ります。
天草灘に沈む夕日を眺めながら、上島北部の松島にある「天草大王バル サンはらいっぱい」に急ぎます
時間が許せば、牛深まで行ってみたかったのですが、夕暮れも迫ってきたので後ろ髪を引かれながら天草下島から、ちょっと珍しい可動式の昇降橋=「本渡瀬戸歩道橋」を横目に天草上島へ、、、
私たちの車が走る「天草瀬戸大橋」の長さは700m。有明海と八代海を結ぶ海路で船の往来が多く、高さを確保するため両端がループ橋となっています。この橋にも歩道はあるものの、両側は急勾配な坂道。そのため、自転車や昔のリヤカーでは渡るのに一苦労でした。そこで歩道専用に架橋されたのが上の写真の「本渡瀬戸歩道橋」。船が通る時は中央がせり上がって、下を船が通ります。
天草灘に沈む夕日を眺めながら、上島北部の松島にある「天草大王バル サンはらいっぱい」に急ぎます
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天草の旅(その9)天草で最も早く造られた教会=大江天主堂から﨑津天主堂へ
「上田家住宅」を見学してから、天草下島をさらに南下。最初に訪ねたのは、キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた教会=大江天主堂。天気に恵まれ、真っ白なロマネスク様式の教会が青空に映えます
さらに島の西側を下って先にあるのが、カトリック﨑津教会。
2018年7月、熊本県天草地方にある港町「﨑津集落」が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つとしてユネスコの世界文化遺産に登録されましたが、当初の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称に、後から地名が加えられた天草地方では喜びもひとしおだったそうです。
最後の2枚は入り江の反対側から、、、
逆光ですが、地元の家並みに教会が溶け込んでいる様が綺麗でした
さらに島の西側を下って先にあるのが、カトリック﨑津教会。
『﨑津教会は、長崎の建築家・鉄川与助によって設計されたゴシック様式の教会で、現在の教会は、1934年(昭和9年)、フランス人宣教師ハルブ神父の時代に再建された。
教会は、尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式で、その堂内は国内でも数少ない畳敷きになっている。
建てられた土地は、ハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡が選ばれた。この禁教時代に厳しい絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたと言われている。
1569年(永禄12年)、ルイス・デ・アルメイダ神父によってキリスト教の布教が行われたこの地では、1638年(寛永15年)の禁教令以後、激しい弾圧を受けながらも240年間に渡って「潜伏キリシタン」として信仰が守られてきた。
この教会は「海の天主堂」とも呼ばれ、教会が建つ漁港一帯は、1996年(平成8年)、日本の渚百選「キリシタンの里 﨑津」に選ばれ、2001年(平成13年)には、日本のかおり風景100選「河浦 﨑津天主堂と海」、2011年(平成23年)には、天草市﨑津の漁村景観が「国の重要文化的景観」にも選ばれている。』(この項:天草宝島観光協会HPより)
教会は、尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式で、その堂内は国内でも数少ない畳敷きになっている。
建てられた土地は、ハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡が選ばれた。この禁教時代に厳しい絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたと言われている。
1569年(永禄12年)、ルイス・デ・アルメイダ神父によってキリスト教の布教が行われたこの地では、1638年(寛永15年)の禁教令以後、激しい弾圧を受けながらも240年間に渡って「潜伏キリシタン」として信仰が守られてきた。
この教会は「海の天主堂」とも呼ばれ、教会が建つ漁港一帯は、1996年(平成8年)、日本の渚百選「キリシタンの里 﨑津」に選ばれ、2001年(平成13年)には、日本のかおり風景100選「河浦 﨑津天主堂と海」、2011年(平成23年)には、天草市﨑津の漁村景観が「国の重要文化的景観」にも選ばれている。』(この項:天草宝島観光協会HPより)
2018年7月、熊本県天草地方にある港町「﨑津集落」が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つとしてユネスコの世界文化遺産に登録されましたが、当初の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称に、後から地名が加えられた天草地方では喜びもひとしおだったそうです。
最後の2枚は入り江の反対側から、、、
逆光ですが、地元の家並みに教会が溶け込んでいる様が綺麗でした
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天草の旅(その8)「上田家住宅」から「ラピュタの木」
さて、昼食を挟んで天草の旅(10月10日)の続きです。
東シナ海を望む景勝ポイント=十三仏公園から白鶴浜海水浴場の砂浜を右に見ながら天草下島を南下して、国の登録文化財に指定されている「上田家住宅」を見学。
現在の庄屋宅は、文化11年(1814)に発生した高浜の大火の翌文化12年(1815)に再建されたものですが、主屋、表玄関、正門、裏門、塀、離座敷が現存しています。
3~4枚目の写真は明治21年(1888)に新築された奥座敷。昭和7年(1932)には、与謝野寛・晶子夫妻もここに泊ったそうです。
写真では分かりませんが、近くで見ると、窓ガラスがかすかに歪んでいるのもいいですね。
ちなみに今はスズなどの溶かした金属の上に溶融ガラスを浮かせて徐々に冷却する「フロート法」で作られるので、真っ平らなのが普通になっていますが、これが発明されたのは1959年のイギリス。それ以前のいわゆる戦前から前のガラスは微妙に歪んで味のあるガラスなんですね!
「上田家住宅」をあとに さらに西海岸を下った先の西平椿公園にある「ラピュタの木」。
椿の盛りの頃は約2万本もの椿が咲き乱れるそうですが、私たちが行った時は桜が何輪か花を咲かせていました。
樹木の名前は「アコウ」といいますが、関東ではあまり馴染みのない名前ですが、クワ科イチジク属に分類される常緑の高木です。枝から垂れ下がるヒゲのような気根、編み目のように絡み合った幹、そして巨大な樹冠など一度見るとなかなか忘れられない特異な姿をしています。
高台の先は東シナ海。夕陽が綺麗でしょうね~
東シナ海を望む景勝ポイント=十三仏公園から白鶴浜海水浴場の砂浜を右に見ながら天草下島を南下して、国の登録文化財に指定されている「上田家住宅」を見学。
現在の庄屋宅は、文化11年(1814)に発生した高浜の大火の翌文化12年(1815)に再建されたものですが、主屋、表玄関、正門、裏門、塀、離座敷が現存しています。
3~4枚目の写真は明治21年(1888)に新築された奥座敷。昭和7年(1932)には、与謝野寛・晶子夫妻もここに泊ったそうです。
写真では分かりませんが、近くで見ると、窓ガラスがかすかに歪んでいるのもいいですね。
ちなみに今はスズなどの溶かした金属の上に溶融ガラスを浮かせて徐々に冷却する「フロート法」で作られるので、真っ平らなのが普通になっていますが、これが発明されたのは1959年のイギリス。それ以前のいわゆる戦前から前のガラスは微妙に歪んで味のあるガラスなんですね!
「上田家住宅」をあとに さらに西海岸を下った先の西平椿公園にある「ラピュタの木」。
椿の盛りの頃は約2万本もの椿が咲き乱れるそうですが、私たちが行った時は桜が何輪か花を咲かせていました。
樹木の名前は「アコウ」といいますが、関東ではあまり馴染みのない名前ですが、クワ科イチジク属に分類される常緑の高木です。枝から垂れ下がるヒゲのような気根、編み目のように絡み合った幹、そして巨大な樹冠など一度見るとなかなか忘れられない特異な姿をしています。
高台の先は東シナ海。夕陽が綺麗でしょうね~
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天草の旅(その7)東シナ海を望む景勝ポイント=十三仏
富岡城をあとに、井上さんが時々利用するという「天草洋」で昼食
お昼をいただいてから、天草下島西側から東シナ海を望む景勝ポイント=十三仏公園には 与謝野鉄幹(天草の十三仏のやまに見る 海の入日とむらさきの波)・晶子(天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞふく)夫妻の歌碑もあって、北に妙見浦、南に白鶴浜海水浴場を望む眺めはまさに絶景でした
お昼をいただいてから、天草下島西側から東シナ海を望む景勝ポイント=十三仏公園には 与謝野鉄幹(天草の十三仏のやまに見る 海の入日とむらさきの波)・晶子(天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞふく)夫妻の歌碑もあって、北に妙見浦、南に白鶴浜海水浴場を望む眺めはまさに絶景でした
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天草の旅(その6)「富岡城跡」へ…
天草四郎の上陸地から、激戦の地=祇園橋を経て、唐津藩の筆頭家老・三宅籐兵衛(ガラシャ夫人の甥)が守る「富岡城跡」へ…
砂嘴が延びる天然の良港。「五足の靴」一行もこちらから天草に上陸
寛永14(1637)年、城を守る唐津藩兵3,000人に対して、城を取り囲む一揆軍は10,000人。総攻撃をかけますが、天草下島とは砂州で繋がり、東側は砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となっている富岡城の守りは固く、攻め落とすことはならず、その後島原の原城に立て籠って、幕府軍との対決に至ります。
お城の中のビジターセンターには十字架の刻印のあるキリシタン側の武具などの資料も多く展示されていました。
砂嘴が延びる天然の良港。「五足の靴」一行もこちらから天草に上陸
寛永14(1637)年、城を守る唐津藩兵3,000人に対して、城を取り囲む一揆軍は10,000人。総攻撃をかけますが、天草下島とは砂州で繋がり、東側は砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となっている富岡城の守りは固く、攻め落とすことはならず、その後島原の原城に立て籠って、幕府軍との対決に至ります。
お城の中のビジターセンターには十字架の刻印のあるキリシタン側の武具などの資料も多く展示されていました。
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天草の旅(その5)「天草香菓園」から本戸「祇園橋」へ
キリシタン布教の中心であった「南蛮寺」をあとに、案内役をかって出てくれた井上さん(「天草香菓園」)の畑でミカンを試食させていただきました
畑から少し南へ行った「大島子」は「島原の乱」で天草四郎が鎮圧軍と初戦を交わした地で、有明町観光協会・島子地域づくり推進協議会連名の案内板に『寛永十四年(1637)十一月十三日、天草四郎が率いる一揆勢二千余人は上津浦(こうつうら)(これより東に三キロ)に上陸。翌十四日早暁、海上・浜辺・山手の三手に分かれ富岡目指し出発。この地にて寺沢側(当時天草は寺沢領)並河九兵衛を大将とする鎮圧勢八百余騎と遭遇する。それ迄寺沢側に呼応していた地元住民の多くは突然一揆勢側に就く。情勢の急変と民家の屋敷廻りの竹木(防御柵)で人馬の動きが自由にならなくなり、並河九兵衛は広いところに出て戦えと下知し、田原である沖の田(これより西へ五百メートル)に移動し、そこで激しく撃ちあう。
多勢に無勢、鎮圧勢は敗れ本戸(ほんと)(現天草市内)へと敗走、激戦地町山口川・本戸城・富岡城(苓北町)・原城(島原の南有馬町)の攻防へと拡大してゆくことになった。』とありました。が、、、島原に面した海側は海老の養殖会社の倉庫が建っていて、景色はいま一つ
そばの大島子(おおしまご)諏訪神社には、真新しいアマビエ様
車は天草市に入って、日本百名橋に選ばれた石造りの「祇園橋」の袂には「天草の乱 激戦之跡」の石碑
寛永14年(1637)、島原・天草一揆で川を挟んでキリシタン軍と唐津藩との死闘が繰り広げられ、屍で川原が埋め尽くされた…場所です。
畑から少し南へ行った「大島子」は「島原の乱」で天草四郎が鎮圧軍と初戦を交わした地で、有明町観光協会・島子地域づくり推進協議会連名の案内板に『寛永十四年(1637)十一月十三日、天草四郎が率いる一揆勢二千余人は上津浦(こうつうら)(これより東に三キロ)に上陸。翌十四日早暁、海上・浜辺・山手の三手に分かれ富岡目指し出発。この地にて寺沢側(当時天草は寺沢領)並河九兵衛を大将とする鎮圧勢八百余騎と遭遇する。それ迄寺沢側に呼応していた地元住民の多くは突然一揆勢側に就く。情勢の急変と民家の屋敷廻りの竹木(防御柵)で人馬の動きが自由にならなくなり、並河九兵衛は広いところに出て戦えと下知し、田原である沖の田(これより西へ五百メートル)に移動し、そこで激しく撃ちあう。
多勢に無勢、鎮圧勢は敗れ本戸(ほんと)(現天草市内)へと敗走、激戦地町山口川・本戸城・富岡城(苓北町)・原城(島原の南有馬町)の攻防へと拡大してゆくことになった。』とありました。が、、、島原に面した海側は海老の養殖会社の倉庫が建っていて、景色はいま一つ
そばの大島子(おおしまご)諏訪神社には、真新しいアマビエ様
車は天草市に入って、日本百名橋に選ばれた石造りの「祇園橋」の袂には「天草の乱 激戦之跡」の石碑
寛永14年(1637)、島原・天草一揆で川を挟んでキリシタン軍と唐津藩との死闘が繰り広げられ、屍で川原が埋め尽くされた…場所です。
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天草の旅(その4)上津浦の南蛮寺
朝ご飯のあとは、海を挟んで島原半島を望める「タコ街道」。
ここで柑橘類の栽培をしている井上さんと合流して、天草一体を案内していただきました。
最初に訪れたのは上津浦の南蛮寺。
ここで柑橘類の栽培をしている井上さんと合流して、天草一体を案内していただきました。
最初に訪れたのは上津浦の南蛮寺。
『キリシタン布教の中心であった「南蛮寺」。キリシタン教会の跡地にこの正覚寺が建立された。南蛮寺は天正17年(1589年)上津浦城主ホクロン殿が建立。最盛期には3,500人を超す人が上津浦城主の庇護のもとにキリシタンへ帰依し、南蛮文化の華が咲き乱れた。しかし、南蛮寺は弾圧のため破壊され、島原・天草一揆(1637年)後、仏教布教のために正覚寺を建立することとなった。
先頃行われた本堂改築の際には、IHSと干(かん)十字の入ったカマボコ型のキリシタン墓石が発見された。杉並立に包まれた境内には、キリシタンの信者が植え付けたともいわれる樹齢400年の南蛮樹(ナギの木)が往時を伝えている。』(解説は天草宝島観光協会から)
先頃行われた本堂改築の際には、IHSと干(かん)十字の入ったカマボコ型のキリシタン墓石が発見された。杉並立に包まれた境内には、キリシタンの信者が植え付けたともいわれる樹齢400年の南蛮樹(ナギの木)が往時を伝えている。』(解説は天草宝島観光協会から)
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天草の旅(その3)朝食前に海べを散歩…
旅の2日目(10月10日)、天草の朝は晴れ
台風が心配でしたがまずまずの空模様! 朝食前に海べを散歩…
食卓に上る鯵は その日の朝に 目の前の海で釣れた鯵です
台風が心配でしたがまずまずの空模様! 朝食前に海べを散歩…
食卓に上る鯵は その日の朝に 目の前の海で釣れた鯵です
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