平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

江~姫たちの戦国~ 第42回「大坂冬の陣」

2011年10月31日 | 大河ドラマ・時代劇
 今回はいいせりふが多かった。

★まずは常高院(水川あさみ)、淀(宮沢りえ)にこう語る。
 「もうおやめになったらいかがです。誰よりもいくさを憎み、嫌っていた姉上ではありませんか!」
 しかし、淀は「もはや後戻りは出来ぬ」「我らは家康の首をあげることのみを考えればよい」
 人間、退く勇気も必要なんですけどね。
 こんなせりふもあった。
 「私が豊臣と徳川、姉上と江をつなぎとめてみせます」
 和睦の使者に立ったことといい、今回は常高院の一世一代の見せ場でした。
 欲を言えば、交渉の一部始終をしっかり見せてほしかったのですが……(「龍馬伝」は龍馬の交渉過程をしっかり描いていた)。
 そうすれば、もっと常高院が立った。

★福(富田靖子)も渾身の一言。
 江(上野樹里)に「何じゃ、その目は?」と問われて
 「豊臣に滅ぼされた者たちの目にございます」。
 まさに身を振り絞るような心の叫び。福の憎悪の深さを感じさせる。
 この渾身の叫びに、お姫様・江は何も言い返すことが出来ない。
 このふたりの関係、どうまとめていくんだろう?

★家康(北大路欣也)は人の心を知り尽くしている。
 「一度緩むと次の恐怖は倍にも三倍にもなる」
 「お命を狙っているのではない。淀殿には、ちと肝を冷やしていただくだけ」
 秀忠(向井理)の「約束が違う!」というせりふには、「約束などしていない」と惚けるし、実にしたたか。
 でもね、リーダーって、これくらい人の心を知り尽くして、したたかでないとダメだと最近思うんですよ。
 誰もがハッピーエンドになるなんてことはウソ。
 もし家康が現代にいたら、日本の外交ももっとしっかりしていたでしょうね。
 現代日本の政治家は小粒だ。しかし、それが平和と成熟した民主主義の結果で、僕は支持するのでありますけど。
 秀忠や秀頼(太賀)が、家康や秀吉よりは小粒なのもそのせい。
 彼らは戦国時代がほぼ落ち着いた平和な時代の<新しい世代>なのだ。

 それから秀忠のエディプスコンプレックス。
 <男の子は父親を乗り越えようとするもの>らしいですが、秀忠は偉大な父親を乗り越えることが出来ないようです。

★淀は悲劇。滅びの美学。
 家臣が駆けつけなかったことについてこう嘆く。
 「人の心とは、これほどはかないものなのか? 豊臣の世はとうに終わっておったのか?」
 そうなんですね、人の心はどんどん変わっていく。
 自分が老いるように、世の中に変わらないものはない。諸行無常。
 シェークスピアの悲劇を見るような感じが淀にはある。

★最後に秀頼。
 埋め立てられた堀を見ているシーンにはせりふがなかったが、十分に彼の気持ちは伝わってきた。
 そしてラストの秀忠とのやりとり。
 「私は世の中を知らなかった。悔しさも憎しみも知らなかった。しかし、今は悔しい。徳川が憎くてたまりません…!」
 これも、心の底から出たせりふ。
 こういうせりふは胸を打つ。
 そして、さらにやりとりは続き
 秀頼「城は私自身なのです」
 秀忠「そうではない! 城の外にも未来はありまする!」
 秀頼「城を出たら、私は死ぬのです」

 秀忠の言っていることは正論かもしれませんが、人の心というのは、理屈じゃないんですね。
 また、「城を出たら、私は死ぬのです」というせりふは実に深い。
 様々な思いが含まれていて、余韻がある。
 名せりふと言ってもいいでしょう。

 今回はいいドラマでした。
 このクォリティで、がんばって!


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする