人は、<欠けているもの>を埋めるために生きているのかもしれない。
野々宮希和子(永作博美)の場合は、愛した男の子供。
秋山恵津子(森口瑤子)の場合は、奪われた子供と子供と過ごすはずだった時間。
彼女たちは欠けたものを埋めるために苦しむ。
希和子は誘拐し、恵津子は他人のような恵理菜(井上真央)を何とか自分の子にしようとする。
これらはいずれも愛するがゆえの行為である。
ふたりは<愛する対象>を求めて、あがきながら生きている。
しかし、希和子たちの<愛の行為>も恵理菜の立場に立ってみると、<エゴ>になる。
希和子の誘拐もエゴだし、自分の子に戻そうとする恵津子の行為もエゴだ。
愛するという行為は、他者がエゴを押しつける一面もある。
恵理菜は<欠けているもの>を埋めようとする希和子たちのエゴの被害者だ。
だから愛がエゴだと知っている恵理菜は愛を信じることが出来ない。
誰も愛することが出来ず、むしろ憎んでしまう。
この作品は、恵理菜が<愛>を取り戻すまでを描いた作品だ。
旅をして恵理菜は<愛する対象>を見出す。
「もう、この子が好きだ。まだ顔も見ていないのに何でだろう」
「この子にいろいろなものを見せてあげる。大丈夫だと言って、世界で一番好きだって言うよ」
恵理菜に<欠けているもの>は人を愛する心だった。
<愛する対象>を見出して、恵理菜の世界は光輝く世界になる。
愛する喜びを知って、恵理菜は母・恵津子とも希和子とも共感し合えるようになるだろう。
なぜなら彼女たち三人は、誰かを愛することに喜びを見出す人たちだから。
最後に希和子が警察に捕まり、恵理菜が保護される時に放ったせりふは感動的だ。
「待って下さい!」
こう叫んだ後、希和子はさらにこう言う。
「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」
何というせりふだろう。
希和子の恵理菜に対する愛情が凝縮された言葉だ。
これが「もう一度、あの子と話をさせて下さい」「別れを言わせて下さい」といったせりふだったら、すごく陳腐だ。
「元気にしっかり生きるのよ」と叫んでも直接的だ。
ここは「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」が一番しっくり来る。
野々宮希和子(永作博美)の場合は、愛した男の子供。
秋山恵津子(森口瑤子)の場合は、奪われた子供と子供と過ごすはずだった時間。
彼女たちは欠けたものを埋めるために苦しむ。
希和子は誘拐し、恵津子は他人のような恵理菜(井上真央)を何とか自分の子にしようとする。
これらはいずれも愛するがゆえの行為である。
ふたりは<愛する対象>を求めて、あがきながら生きている。
しかし、希和子たちの<愛の行為>も恵理菜の立場に立ってみると、<エゴ>になる。
希和子の誘拐もエゴだし、自分の子に戻そうとする恵津子の行為もエゴだ。
愛するという行為は、他者がエゴを押しつける一面もある。
恵理菜は<欠けているもの>を埋めようとする希和子たちのエゴの被害者だ。
だから愛がエゴだと知っている恵理菜は愛を信じることが出来ない。
誰も愛することが出来ず、むしろ憎んでしまう。
この作品は、恵理菜が<愛>を取り戻すまでを描いた作品だ。
旅をして恵理菜は<愛する対象>を見出す。
「もう、この子が好きだ。まだ顔も見ていないのに何でだろう」
「この子にいろいろなものを見せてあげる。大丈夫だと言って、世界で一番好きだって言うよ」
恵理菜に<欠けているもの>は人を愛する心だった。
<愛する対象>を見出して、恵理菜の世界は光輝く世界になる。
愛する喜びを知って、恵理菜は母・恵津子とも希和子とも共感し合えるようになるだろう。
なぜなら彼女たち三人は、誰かを愛することに喜びを見出す人たちだから。
最後に希和子が警察に捕まり、恵理菜が保護される時に放ったせりふは感動的だ。
「待って下さい!」
こう叫んだ後、希和子はさらにこう言う。
「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」
何というせりふだろう。
希和子の恵理菜に対する愛情が凝縮された言葉だ。
これが「もう一度、あの子と話をさせて下さい」「別れを言わせて下さい」といったせりふだったら、すごく陳腐だ。
「元気にしっかり生きるのよ」と叫んでも直接的だ。
ここは「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」が一番しっくり来る。