清盛(松山ケンイチ)は滋子(成海璃子)のような人間が大好きなんですよね。
自分をしっかり持っていて、自己主張してくる人間。
今回の場合は、政治の道具にならず、自分の好きな人と結婚すると言い切る人間。
平氏が「国を動かせる力」を持つためには、後白河上皇(松田翔太)とは「つかず離れず、程よい間」を保ち、帝と懇意にしていくのが、清盛の戦略だったのに、滋子はそれを完全に打ち壊してしまった。
しかし、清盛は「台無しじゃ」と怒りながらも、滋子という人間を認めている。
「武士が頂点に立つためには、醜いことにも手を染める」と言う清盛だが、清盛にはこうした<甘さ><やさしさ>がある。
それが人としての魅力になっている。
人物像として、わからなくなってきたのは、後白河上皇だ。
当初、後白河上皇が滋子と関係を持ったのは、劣勢であったのを巻き返すためだと思っていた。
すごろく遊びで言えば、清盛がかなり追い上げてきたから、ここで清盛の前進を止めておかなくてはという作戦。
上皇と清盛が姻戚関係になれば、帝の側は疑心暗鬼になり、清盛とは別の勢力を作ろうとするだろうという作戦。
しかし、実際は違っていた。
後白河上皇は滋子のことを本気で好きになってしまった。
孤独で虚無な彼の心に滋子は温かい光を灯したようだ。
例の「遊びをせんとや生れけむ」の歌が虚無的なものではなく、母親の腕に抱かれているような、生きていることの歓びを歌ったものになった。
さて、これで物語はかなり複雑になってきた。
<清盛VS後白河上皇>という単純図式ではない別の物語が展開されそうだ。
最後に、清盛は病床の家貞(中村梅雀)に「欲こそがおのこの力の源」と語った。
これを女性に当てはめてみると、「愛こそがおなごの力の源」と言えるかもしれない。
今回の滋子しかり、亡くなった美福門院(松雪泰子)しかり。
こう考えていくと、人の世というのは、さまざまな人の思いが絡み合って作られているんですね。
この作品は見事な人物絵巻です。
自分をしっかり持っていて、自己主張してくる人間。
今回の場合は、政治の道具にならず、自分の好きな人と結婚すると言い切る人間。
平氏が「国を動かせる力」を持つためには、後白河上皇(松田翔太)とは「つかず離れず、程よい間」を保ち、帝と懇意にしていくのが、清盛の戦略だったのに、滋子はそれを完全に打ち壊してしまった。
しかし、清盛は「台無しじゃ」と怒りながらも、滋子という人間を認めている。
「武士が頂点に立つためには、醜いことにも手を染める」と言う清盛だが、清盛にはこうした<甘さ><やさしさ>がある。
それが人としての魅力になっている。
人物像として、わからなくなってきたのは、後白河上皇だ。
当初、後白河上皇が滋子と関係を持ったのは、劣勢であったのを巻き返すためだと思っていた。
すごろく遊びで言えば、清盛がかなり追い上げてきたから、ここで清盛の前進を止めておかなくてはという作戦。
上皇と清盛が姻戚関係になれば、帝の側は疑心暗鬼になり、清盛とは別の勢力を作ろうとするだろうという作戦。
しかし、実際は違っていた。
後白河上皇は滋子のことを本気で好きになってしまった。
孤独で虚無な彼の心に滋子は温かい光を灯したようだ。
例の「遊びをせんとや生れけむ」の歌が虚無的なものではなく、母親の腕に抱かれているような、生きていることの歓びを歌ったものになった。
さて、これで物語はかなり複雑になってきた。
<清盛VS後白河上皇>という単純図式ではない別の物語が展開されそうだ。
最後に、清盛は病床の家貞(中村梅雀)に「欲こそがおのこの力の源」と語った。
これを女性に当てはめてみると、「愛こそがおなごの力の源」と言えるかもしれない。
今回の滋子しかり、亡くなった美福門院(松雪泰子)しかり。
こう考えていくと、人の世というのは、さまざまな人の思いが絡み合って作られているんですね。
この作品は見事な人物絵巻です。