平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

あいのり 8/18

2008年08月19日 | バラエティ・報道
★ヤマジ
 今回のつかみはヤマジの歌とモデルウォーク。
 ヤマジの歌がオープニングになるとは!?

 ヤマジはこの屈折具合がいい。
 人間生きていれば体だけじゃなく心にも歪みが出てくるものだけど、彼女の歪み方はすごい。
 前回はこーすけに意見されて歪みを正されたけど、人間、そんな簡単に直るものじゃない。
 シュレックはスルーされたし。
 ヤマジの歪み方は個性だ。
 無理に真っ直ぐに直そうと(フツーになろうと)せず、うまくその個性を伸ばしてほしいな。
 
 今回のパフォマンス以外にもまだいろいろありそうなヤマジ。
 彼女の心の中は混沌として様々なものが入り交じっているのだろう。
 現実の生きにくさとか、他人に受け入れられない自分とか。
 ヤマジはシナリオライターや小説家が想像も及ばないキャラクターだ。
 彼女が今後どんな心の中を見せてくれるか楽しみ。

★究極の選択
 こーすけか?海か?
 迷う桃。
 こーすけのことは好きだけど、彼の気持ちはよっこの方に向いている。
 献身的な海とつき合ったら幸せになれそうだけど、こーすけほど好きじゃない。
 <人を愛する>方が幸せか?
 <人に愛される>方が幸せか?
 その究極の選択。

 見事なドラマだ。
 見ている方も「自分だったらどっちにするか」と迷うし、桃がどっちを選ぶか予測不能だ。
 あいのりの参加者は基本的にシロウトさんですよね。
 編集によって多少作られた部分はあると思うが、すべての参加者が見事なドラマの登場人物になっている。
 プロの役者の演技によって作られた表情でなく自然な表情。
 プロのシナリオライターがとても描けないせりふやリアクション。
 そして今回の桃は恋愛ドラマの見事な主演女優。
 さて桃はどんな結論を出すか?

 オリンピックもそうだけど作り物でないドラマには迫力がある。



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篤姫 第33回「皇女和宮」

2008年08月18日 | 大河ドラマ・時代劇
★新たなる対決
 井伊(中村梅雀)との対決を終えた天璋院(宮崎あおい)の次なる相手は和宮(堀北真希)。
 今回はその序章。

 幕府と朝廷との対決だ。
 天璋院は和宮を快く迎え入れようとするが、自分を薩摩に帰そうとしたことで気づく。
 朝廷に気を遣い過ぎる安藤信正(白井晃)ら老中たち。
 このままでは家茂(松田翔太)や幕府がないがしろにされる。
 それは幕府の崩壊にも繋がる。
 だから自分は残って幕府の権威を守らなければならない。
 高度な政治的判断だ。
 そこで安藤を一喝。
 「幕府の人間としての誇りを持て!」
 井伊が倒れ幕府を背負うことになった天璋院は政治家になった。(その変化の描写はいささか足りない気がするけれど)

 一方、和宮は天皇の妹、朝廷人としてのプライドがある。
 婚約を破棄された恨みもある。
 和宮は日本国ためという『使命』にとらわれ心を閉ざしてしまっている。

 こんな両者の対決。
 背負っているものが<幕府>と<朝廷>だけに簡単に理解し合えるものではない。

 さてこの対決をどう描いていくか?
 当初は『嫁・姑の争い』『どちらが格上か格下か』という争いになりそう。
 家定の時に有効だった『五つならべ』みたいな小道具があるといいのだが、当分、天璋院は今までの篤姫を期待している視聴者を裏切る人物を演じなければならない感じだ。

★時代を動かすのは……
 勝麟太郎(北大路欣也)、岩倉具視(片岡鶴太郎)、そして大久保(原田泰造)。
 平和な時代なら下級の存在で終わっていた人が世の中に出てくるのが動乱の時代。
 何かを持っている上の人間というのは守りに入って自由な発想が出来ないですからね。
 下の人間には大久保の様にのし上がってやろうという野心もあるし。

 その中で面白い存在が帯刀(瑛太)。
 彼は冷静に物事を判断出来る。
 激情・熱情は時代を動かすエネルギーにはなるが、方向を間違えると滅びる。
 今回突出しようとした誠忠組や幕末の志士の様に。
 そこで必要になってくるのは冷静に情勢を判断し激情家に指示を与える人物。
 第二の坂本龍馬とも言われている帯刀が歴史でどんな役割を演じるか楽しみだ。


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トンマッコルへようこそ

2008年08月17日 | 洋画
 この作品は戦争というものの本質を教えてくれる。

 朝鮮戦争。
 戦争とはまるで無縁の平和な村トンマッコル。
 そんな村に迷い込んできたアメリカ人パイロットのスミス、韓国軍の2人と人民軍の3人。
 当然、韓国軍と人民軍は銃を向け戦いを開始しようとするが、そんな緊迫の中、トンマッコルの村人達は畑を荒らすイノシシの相談。
 あまりに平和な情景に敵対していた兵士達は毒気を抜かれて……。

★そう、これが戦争の本質のひとつだ。
 戦争のまっただ中にいる戦士達は敵を倒すことしか見えないが、一歩引いて冷静になってみると自分たちは何のために戦っているのかわからなくなってくる。
 戦い憎み合う理由として『国家』や『主義主張』というものがあるだろうが、平和な日常に身を置いてみると、それが霧散してしまう。
 『国家』や『主義主張』が<自分たちが生きる上で何ら大切でないこと><自分の本質でないこと>がわかるのだ。

 それは現在の我々をふり返ってみれば分かる。
 我々は普段生活する上で『国家』や『主義主張』のことなど考えていない。
 我々が国家を意識するのは、例えばオリンピックの時ぐらい。オリンピックが終われば国のことなんか考えない。
 あるいは日本という国や他国を客観的に見ることが出来る。
 戦い憎み合う理由とは単なる<熱狂>なのだ。
 それはオリンピックやワールドカップの熱狂と同じ。
 醒めれば普通の日常に戻っていく。
 平和な村トンマッコルにやって来た兵士達もそれと同じ状態になる。
 果たして自分たちは何のために戦っていたのか?畑のイノシシをどうするか?の方が大切ではないかと。

★もうひとつ、この作品が教えてくれる戦争の本質とは、無実な人間が巻き込まれる不条理。
 スミスを救うために落下傘降下した韓国・アメリカの連合軍はトンマッコルの村を人民軍の村と判断し、村娘を殺してしまう。
 流れ弾が当たったのだ。
 村娘は政治的には全く関係ない人間だったのに。
 この不条理。
 戦争は何も関係ない人を巻き込んで命を失わせてしまう。
 冷静な時ならそれが異常なことだと分かるのに、戦争になると巻き込むことも当然になってしまう。

 この作品はそんな戦争の本質を教えてくれる作品。
 ラストの飛行機との戦闘シーンは作品を盛り上げるためのものだろうが、テーマを語る上では無駄。蛇足だ。
 ラストの戦闘シーン以外は見事な反戦映画になっている。


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白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々

2008年08月15日 | 洋画
 1943年。“打倒ヒトラー”を呼びかける組織「白バラ」のメンバーであるゾフィーと兄ハンスは、大学構内でビラをまいているところを見つかり、ゲシュタポ将校に連行される。
 これはゾフィの死刑が執行されるまでの物語。

 ゾフィの戦いは次のように展開される。

1.自分はビラを撒いていない。「無実だ」という戦い。
 偽りの証言をしても生きていきたい。これは人間として当然のことだろう。
 まして自分は正しいことのために戦っていると思えば、犬死は出来ない。
 しかし、部屋に残された切手やタイプライターなどの証拠があがると、ゾフィは別の戦いを開始する。

2.仲間を救う戦い
 ゾフィは「自分のやったことに誇りを持っているわ」と言い、反戦運動をした仲間に捜査の手が及ばないように自分と兄がすべてやったことと証言する。
 しかしゲシュタボの捜査はきつい。仲間が次々と逮捕される。
 するとゾフィは次の戦いへ。

3.主義主張の戦い
 ゾフィは尋問官モーアと議論する。
 「この戦争はドイツの負け。なおも戦争を続行しようとするヒトラーは間違っている」
 一方、モーア。
 「ヒトラーは第一次大戦後のドイツの貧困と失業から救ってくれた。もう少しがんばればドイツは勝てるのに、なぜ戦意を失わせる反戦運動をするのか?」
 戦争を始めるのは愚行だが、引き際を定められないのは悲惨。
 過去、ゾフィとモーアの様な議論が何度繰り返されただろう。

 またふたりの間でこんな議論もなされた。
 モーアは「現行の法律に基づいて反戦運動家を拘束している。自分の行動に間違いはない」「法律の他に何を頼りにすればいいのか?」と主張する。
 それに対してゾフィ。
 「法律より頼りにすべきもの。それは良心よ」
 『法律』を考える上で面白い議論だ。
 「悪法でも法」なのか?「法律を越えるものは良心」なのか?
 良心というのは非常に曖昧なものではあるけれど。

4.信念を捨てれば助けるという戦い
 四番目の戦いは『命』か『信念』かの戦いだ。
 「信念を捨てれば命を助ける」というモーアに対し、ゾフィは迷う。
 これも究極の葛藤だ。
 人によって意見の分かれるところであろう。
 この様にこの作品は人間の様々な葛藤を描いて見事なドラマとなっている。

5.最後の戦いは裁判
 人民法廷の中で「最悪の人間」「寄生虫」「思い上がるな」とナチズムにどっぷりと浸かった判事にののしられるゾフィたち被告。
 ここでドラマはクライマックスになる。
 ゾフィも感情が込み上げ最後にこう叫ぶ。
 「今にあなたがここ(被告席)に立つわ!」

 すさまじい作品だ。
 この作品にはこれらゾフィの戦いと共に様々なテーマが描かれる。

 例えば『運命』。
 もしゾフィが三階にビラをまこうと言い出さなかったら、三階からビラを落とすことがなかったら、ゾフィは捕まらなかった。
 いったんゾフィは証拠不十分で釈放されそうになるが、わずかの差で再び拘束される。
 運命の皮肉、悲惨だ。

 『希望』も描かれる。
 迫りつつある連合軍。連合軍が来れば自分は自由になれる。
 たとえ死刑の判決が出ても死刑執行には99日間の猶予があるから、その間には連合軍が来る。
 しかし死刑は判決と同時に行われ……。
 ここに描かれる『希望』と『絶望』のドラマ。

 ゾフィたちはギロチンで死刑執行される。
 罪状は反戦のビラを撒き、<軍の士気を低下><敵対幇助>をしたこと。
 逮捕されてから死刑が執行されるまでは5日間。
 ビラを撒いただけで、しかも5日間でというのが、この時代の異常さを感じさせる。


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正義の味方 第6話

2008年08月14日 | ホームドラマ
★喜劇について
 喜劇はむずかしい。
 例えば、見ている人が容子(志田未来)のことを「可哀想」と思ってしまったら喜劇じゃなくなる。
 この作品のテンポの良さは視聴者に「可哀想」と思わせないための手段だ。
 勢いで疑問をはさませないで、強引に物語の中に引っ張っていく。
 ちょっと心情描写が入ったりしたら喜劇でなくなってしまう。

 また喜劇は日常の常識をくつがえすもの。
 悪魔の姉・槙子(山田優)がその正体を暴かれず『正義の味方』になってしまうこと自体が反日常。
 刑事ドラマでは犯人は暴かれるし、決して正義の味方にはならない。
 「水戸黄門」では最後に悪は罰せられる。
 この作品はこうした日常の当たり前をひっくり返していることに面白さがある。
 よく考えてみれば、容子の境遇は奴隷・いじめだしね。
 普通なら奴隷・いじめはよくないというメッセージになる。

 この様に喜劇は既成の価値を逆転させるものである。
 もっとも今回は『姉から解放された容子』の姿を見せたために、若干「容子は可哀想」という真実を視聴者に気づかせてしまった。
 喜劇が成り立たなくなる危うい展開の話であった。

★わらしべ長者
 今回はわらしべ長者の物語展開。
 良川(向井理)のために作ったカレー→腐って良川の母(山口いづみ)が病院に→鶏肉屋に文句を言いにいく槙子→実は鶏肉屋は違法DVDに密輸をしていた→槙子は正義の味方に→密輸犯逮捕とその仕事ぶりで良川はドンボから戻ってくることに。

 <カレー>が<密輸犯逮捕><良川の帰国>にまで発展するとは!!
 これだけぶっ飛んだ展開を見せられると気持ちいい。

※追記
 容子の洋服は着まわしが多い。
 前に出た服を何回も登場させている。
 それは容子が洋服も自由に買えない悲惨キャラだから。
 その辺もきっちりこだわって作られている。


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あしたの私のつくり方

2008年08月13日 | 邦画
 これも自分探しの物語。

 <自分>とは何であろう?
 かつてはクラスの人気者だったが、ある日突然いじめられる存在になってしまう日南子(前田敦子)。
 彼女は思う。
 人気者の自分こそが本当の自分であり、ハブられる自分は本当の自分でないと。
 でも、実はそのいずれも自分。
 <自分>とは他人との関係の中で作られるもの。
 人気者であれ、いじめられっこであれ、他人に認められている自分が<自分>。
 そんな哲学的命題をこの作品は描いている。

 それはこんなエピソードにも。
 いじめられた日南子は逃げる様に転校をする。
 しかし転校先でもいじめられるのではないかと不安でしょうがない。
 そこへ送られてくるメール。
 小学校の時のクラスメイト寿梨(成海璃子)が不安になっている日南子を心配して送ったのだ。
 間違いメールのフリをして。コトリという偽の名前を使って。
 そこから寿梨と日南子のメール交換が始まる。
 寿梨は日南子が学校で人気者にあるためにアドバイスを送る。
 「初日にコケてドジな女の子という印象をつけなさい」
 「カラオケで受けるには替え歌」
 「クラスで人気の子と同じクラブに入りなさい」
 寿梨のプロデュースで人気者になっていく日南子(ノブタ?)。
 彼氏も出来た。
 だが日南子はある時思う。
 今の自分は作られた偽物の自分ではないか?
 またもや<自分探し>の始まりだ。

 一方、寿梨。
 彼女も<自分探し>をしている。
 現実の自分は嫌われない様に他のクラスメイトの顔色を見て、離婚した母親にも気を遣っている。(本当は家族いっしょに暮らしたいのに)。
 寿梨はそんな自分が嫌いだ。
 唯一の救いは日南子へのメール。
 アドバイスを送るコトリという女の子こそ恋愛や人間関係の達人で理想の自分。

 でも寿梨は最後には気づく。
 母親にいい顔をしている自分も、コトリも自分であることを。
 いくつもある自分は他人との関係において成り立っているのだ。
 いい顔をしている自分は、友達や母親に対しての自分。
 コトリは日南子に対しての自分。

 そして彼女はもうひとつ重要なことに気づく。
 今、嫌だと思っている自分は行動や考え方次第でいくらでも変われることを。
 例えば母親との関係では父親のことを恋しいと母親に言えばいい。
 そうすれば新しい自分になれる。

 まとめます。

 <自分探し>の結論とは
★自分とは他人との関係で成り立っていること
★他人のいない世界で「自分探し」をしても何も見つからないこと
★他人に働きかけることで人はいくらでも新しい自分になれること  

 これらのことがわかるだけで人は<自分探し>でムダな時間を過ごさずに済む。
 哲学的命題を持ったいい青春映画でした。
 夢や恋愛を語るだけが青春映画ではない。


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篤姫 第32回「桜田門外の変」 その2

2008年08月12日 | 大河ドラマ・時代劇
 篤姫「桜田門外の変」その2。

★思い出
 天璋院(宮崎あおい)は言う。
 「思い出は宝物。心を弾ませ、沈め、慰めてくれる」

 そうですね。
 人が生きていく上では『宝物となるいい思い出』を沢山持ちたいものですね。
 いい思い出があれば、自分や他人を信じることが出来る。
 逆につらい思い出ばかりだと人は不信の固まりに。
 自分さえも信じられず愛せなくなったら人生は悲惨だ。

 天璋院はいい思い出を沢山持っている人。
 尚五郎(瑛太)や薩摩の両親。
 斉彬(高橋英樹)に幾島(松坂慶子)。
 夫・家定(堺雅人)。
 たとえ人間を信じられなくなる出来事があっても、これらの人々との関わりを思い出せばいい。
 そうすれば人間を信じられる。
 人はいい思い出を作れるように日々生きていくことが大事なのだ。

★好いちょられましたか
 ジョン万次郎によって尚五郎の気持ちを知った天璋院。
 この瞬間だけ彼女は薩摩時代の於一に戻った。
 それまでは弾圧を行った井伊(中村梅雀)に嫌悪の感情。
 「そなたもおったのか?」
 およそ今までの篤姫らしくない。
 これでは主人公でなくなってしまったため、作者は昔の篤姫を登場させたのだろう。

 それにしても旧友は昔の自分に戻してくれる。
 御台所、大御台所といった鎧を外して何も持っていなかった頃の自分に戻してくれる。
 思い出と共に旧友の大切さを教えてくれた今回のエピソード。

 天璋院と帯刀が再会した時、どんな会話がなされるのだろう?

★新キャラ登場
 幾島がいなくなって今までの登場人物がリセットされたこの作品。
 そこで勝麟太郎(北大路欣也)という新キャラが登場。
 この作品は篤姫が様々な人と出会う作品ですからね。新キャラを投入しないと。
 来週は和宮が出るらしい。

※追記
 薩摩では「誠忠組」が誕生。
 司馬遼太郎の「桜田門外の変」では精忠組(司馬さんの方は<誠>でなく<精>の字が使われている)についてこんな描写がなされている。

 当初、井伊誅殺については、薩摩藩激徒の間に壮大な計画があった。
 井伊誅殺と同時に、薩摩藩は壮士三千人をもって大挙京にのぼり、朝廷を守護して幕府に臨み、朝命により幕政の改革をせまるにあった。
 この『斬奸計画』のため国元におかえる大久保ら有志数十人が脱藩を覚悟したほどだが、この脱藩のうわさが藩主の実父島津久光に洩れた。
 が、久光は弾圧しなかった。
 このときに久光がとった態度が、幕末動乱期における薩摩藩独特の統制主義の基礎をつくったと言われている。
 「その方たちの志は嘉(よみ)する」と久光は言った。
 「しかし微力の脱藩浪人の力で天下を動かせるものではない。まあ待て。いずれ薩摩藩は一藩をあげて事に従い、機会を察して起ちあがるつもりでいる」
 この旨を藩主直書のかたちにして、しかも「精忠士面々へ」という宛名までつけ、「精忠組」という非公認政治団体を公的なものとして認めた。
 あざやか過ぎるほどの手際である。
 これには大久保らも「一藩勤王ならば、わざわざ脱藩して詭道を踏むにあたらない」と突出を思いとどまり、それぞれ血判して請書を出した。

 これはほぼドラマで描かれていたとおり。
 他の小説と比べてみる。
 これも歴史ドラマの楽しみだ。


 「桜田門外の変」その1はこちら


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篤姫 第32回「桜田門外の変」

2008年08月11日 | 大河ドラマ・時代劇
★井伊直弼の歴史的役割
 天璋院(宮崎あおい)に茶をたてる井伊直弼(中村梅雀)。
 その主張は次のようなもの。
 「攘夷などすれば外国に攻められ国が滅ぶ。自分はそれを防ぐために攘夷勢力を弾圧した」
 「そのために恨みを買うことはやむを得ない。おのれの役割を果たしたまで」
 
 歴史の詳細については詳しい方に譲るが、井伊は国を守るために<弾圧>という<外科手術>を行った様だ。
 外国勢力から日本を守りたいというのは当時生きた人の共通の<目的>であったろうが、<手段>が違う。
 幕府主導でやるのか(→直弼)、朝廷主導でやるのか(→尊皇派)。
 弾圧で反対勢力を一掃して国をまとめるのか(→直弼)、穏やかな話合いで国をまとめるのか(→天璋院)。
 医学にたとえれば、外科手術でやるのか(→直弼)、投薬治療でやるのか(→天璋院)という所だろうか?
 
 直弼は解決のために外科手術を行った。
 その方が速いからだ。
 薬の治療では時間がかかり、歴史の流れに対応できない。
 天璋院は茶を飲みながら、手段は違っていても目的は井伊と同じであったことを確認した。
 直弼の行動は単なる権力欲ではなく、恨みを買ってでもやらなくてはならないことだったことを理解した。

 この様に「篤姫」は理解の物語である。
 篤姫は人に出会い、その人間を理解する。
 夫・家定もとんでもない人物だったが、篤姫は理解し、最後には心を通じ合わせた。
 今回の井伊もそう。
 理解されたことを喜ぶ井伊。
 ミシンで作った贈り物。
 死ぬ前にこの様な心の交流が得られたことは幸せであったことだろう。

 しかし暴力は暴力を呼ぶ。
 桜田門外の変。
 暴力は暴力を呼ぶことを知っていた井伊。
 彼はこの日が来るかもしれないことを覚悟していた。
 暗殺されるかもしれないと思いながらも弾圧を行った人物として井伊は描かれている。

※追記
 司馬遼太郎は「桜田門外の変」という短編(文春文庫「幕末」収録)の中で井伊をこう評している。
「井伊は政治家というには値しない。その理由が国家のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためだったからである」
「井伊は固陋な攘夷論者に過ぎなかった。洋式調練を廃止して軍制を『権現様以来』の刀槍主義に復活させているほどの保守主義者である」
「支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である」
「井伊の弾圧には政見というものはない。彼は水戸斉昭の政治的容喙(ようかい)を嫌い、憎悪し弾圧した。いわば一徳川家の私的な問題を国家の問題とした人物である」
 一部文章を省略・改変させていただいているが、司馬さんの井伊の評価は最悪の政治家という評価。

 当然の事ながら歴史の評価は見る人によって様々なのだ。
 これはそのいい例。


 今回は内容盛りだくさんなので2回に分けて。
 「桜田門外の変」その2はこちら。




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ヤスコとケンジ 第5話

2008年08月10日 | 学園・青春ドラマ
★キャラクターの立たせ方
 「ストーカーの様につきまとわれて困っている」
 「写真集も欲しくないからもらってくれと言われた」
 こう言われたヤスコ(多部未華子)はつらいでしょうね。
 涙を流して家に帰ってくるヤスコ。
 ここで描写を終わらせてしまったら、ヤスコはフツーのキャラだ。
 すごいのはその後。
 翌日、ヤスコは同じ写真家の写真集をいくつも持ってきて「どれが欲しかったのか?」と純(大倉忠義)に聞く。
 つらいのにさらにがんばったヤスコ。
 普通のキャラならやらないリアクション。
 これでヤスコはヒロインになれた。
 キャラクター描写はこの様にさらに一歩踏み込めるかどうかで違ってくる。

 純の次の描写も見事。
 助けに来たケンジ(松岡昌宏)とエリカ(広末涼子)に純は言う。
 「自分が落とし前をつける」
 幹夫(安田章大)の裏切りは自分の問題だからだ。
 いつもは助けられっぱなしだった純が自分のプライドとヤスコのために闘う。
 これも一歩踏み込んだ描写。
 これでかっこいいだけだった王子様・純のキャラクターが立った。
 このエピソードにはさらにおまけ付き。
 幹夫に純は言う。
 「お前も大事なものを見つけろよ」
 裏切られても友人として忠告する。
 普通だったら幹夫を殴り倒して終わり。
 これも一歩踏み込んだ描写。

 キャラクターを立たせるには一歩も二歩も踏み込んで描写することが大事だという見本だ。

★「マイ★ボス・マイ★ヒーロー」の榊君との共演を!
 この作品、同じ枠でやってた「マイ★ボス・マイ★ヒーロー」と合体してほしいな。
 ケンジとヤクザの組長・榊君がいっしょになって闘う。
 夢の共演!
 同じTOKIOだし。
 でも「マイ★ボス」は韓国原作だったっけ?
 ぜひ実現して欲しい。


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晩春 小津安二郎

2008年08月09日 | 邦画
★現代の映像はどんどんテンポアップされているが、小津安二郎作品は1シーンをじっくり見せる。
 カメラは固定。
 畳に座っている人間の全身が映せるようにローアングル。
 襖などの日本家屋の特性を活かして人物の出入りをさせる。その時のカメラは固定したまま。時折、しゃべっている人物のバストショットが挿入される。
 1シーンは長く、カメラは決して動かない。
 <子供の親離れ><親の子離れ>という心の起伏はしっかり描かれているのだけれど、画面はいつも安定している。

 そして別のシーンになってもカメラアングルは変わらない。
 曽宮家の居間を描く時はいつも周吉(笠智衆)の机の方向から。
 曽宮家の玄関を描く時はいつもミシンが見える。
 曽宮家の門の外を描く時はいつも門が左側。
 紀子(原節子)の二階の部屋はいつも窓からで椅子がふたつ見える。

★この撮り方の効果は何か?
・静けさ
・安定感
・ゆったりとした時間の流れ

 この小津安二郎の映像を退屈という人もいるだろうが(僕も20代で見た時はそうだった)、年齢を重ねていくと、この良さがわかってくる。
 すなわち
 ゆったりした時間の流れに身を委ねる快楽。
 忙しい現代とは別の時間を生きる快楽。

 ゆったりした画面に退屈さを感じないのは、そこで描かれている周吉ら主人公たちの心も安定しているから。
 もちろん人物には心の葛藤があるのだけれど、彼らはそれにも増して心が穏やかだ。

 この小津安二郎の文体は現代に必要なもの。
 もっと研究されていい。
 固定カメラという点では、現在山田洋次監督にその影響が見える。
 ゆったりとした時間に身を置きたい時、小津安二郎の作品はお薦めだ。


※追記
 いつも同じアングルで撮っている効果は他にも。
 いつも同じアングルで見ているものだから、見ている方は画面のディティルを観察してしまう。
 そして思うのは日本家屋の美しさ。

※追記
 紀子が自転車を漕ぐシーンや能を見て周吉や紀子が別々に歩くシーンなんかは古き良き外国映画を思わせる。
 小津安二郎作品には外国映画のおしゃれさもある。


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