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日本を批判する者を反日呼ばわりしてきた者は、「ちょっと日本、ここがおかしいんじゃないか」と思うことがあっても、それを口にしたら自分も反日視されるのではないかと怖くて、言えない。
つまり、人を排除することにより安心感を得てきた者は、自分が排除されることを極端に不安視するのです。したがって彼らは、自分の考えを無視してでも、周りに付和雷同するしかなくなります。自分の感覚を無視することで安心感を得る。まさしく精神の死です。そこにあるのは、他者に追随するという選択肢のみ。自分の意思が入る余地はないのです。
精神の自由とは自分の意思に従って物事を考え、場合によってはそれを行動でも表す自由ですから、付和雷同しか選択肢のない人には精神の自由はないということになります。
そして、なぜ付和雷同しか選択肢にないと思い込んでしまうかと言えば、それは、排除により安心感を得るという心のもちように問題があります。
排除でなく、相手を受け容れる心、すなわち寛容の精神を持ち、そこに安心感を見出せるようになれば、皆精神の自由を得ることができる。
私はそう考えます。 <o:p></o:p>
しかし、政府は国民に精神の自由を享受させるつもりはさらさらない。
精神の自由などを下手に国民が学ぶ前に、取り上げてしまおう、という魂胆です。 <o:p></o:p>
共謀罪という名の密告・監視社会化、精神の抹殺を目的とした法案に対し与党がずっと執着してきているという事実も、このことを証明しています。 <o:p></o:p>
精神の自由を殺したら権力者にとって、財界の経営陣にとって、軍需産業にとって一体何が好都合か。 <o:p></o:p>
集団意思、主人の命令には絶対従う奴隷を作り出すことができる。ロボットを作り出すことができます。権力者のために何も言わずに命を投げ出す兵士が作り出せます。 <o:p></o:p>
小泉、安倍の靖国への執着も、権力者のために命を投げ出すことは政府要人の参拝に値するほど素晴らしく名誉なことなのであると、国民に、とりわけ、将来の兵士予備軍の若者に対し、印象付けることに狙いがあります。 <o:p></o:p>
こうした裏の意図を知らずして、「行き過ぎた自由」だの、「靖国参拝は当然だ、中国や韓国は四の五の言うな」といった議論に引きずられてしまうと、国民は最終的には精神のみならず命をも捨てることになります。 <o:p></o:p>
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どこへ行く、日本。(安倍の「戦後体制からの脱却(=戦前・戦争体制への回帰)」を日本国民は許してしまうのか)
http://ameblo.jp/warm-heart/ <o:p></o:p>
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