前叙の如く個人格を寂滅涅槃の理に帰せんとする小乗も、個体を真如平等の理に帰せんとする大乗も、法が真実であって人を仮なりと観るものである。かくのごとく一般仏教は主客を絶したる無相の法を偏重したる結果、個人格に何等価値なきものと解せらるるに至った。かかる没我的寂滅為本の教は、人生至高の要求に満足を與へ得ざるものである、真我の生命開発の要諦を未だ明かさざるものである。
されば真言密教にては、寧ろ「人」を本とし、「法」をば人の自覚の内容と見、人法主客、本末の関係をして転倒せらるるに至った。かかる解釈は弘法大師の遺書の所々に見ゆるも、近くは吽字義に「(梵字の)摩字」は吾我(を顕す)の義を釈し、人も空なり法も空なり、一切無我空義を摩字の實義となすはこれ因人(覚る前の人)のための遮情(すべてを否定する)の説なり、しかも摩字が吾我をあらわすという実義はかかる無我の法にあらず、この無我法を体得せる毘盧遮那の人にあり」とし、「摩字とは大日の種子なり。一切世間は我我を計すと雖も未だ實義を証せず。唯だ大日如来のみいまして無我の中において大我を得たへり。心王如来(大日如来)既に是の如きの地に至りたまふ。塵数難思の心所眷属誰か此の大我の身を得ざらん。是れ則ち表徳の実義なり。」
或はかの般若心経の如きも一般佛教家は大般若経の心要を説ける霊典と観るを、弘法大師は般若菩薩の内証法門を説ける経なりと釈し給ふが如きは、これ人を本とし、法は人の証見せる三摩地の体なりとなすものである。
その他(大師の)梵網経開題に「夫れ道の本は無始無終也。教の源は無造無作也。三世に亘って変ぜず、六塵(色声香味触法)に遍じて常恒なり。然れども猶ほ示す者なければ則ち目前なれども見えず。説く者なければ則ち心中なれども知らず。雙圓の性海には常に四曼(「四曼」とは、「大曼陀羅(諸仏・諸菩薩など諸尊の形)」「三昧耶曼陀羅(諸尊の持ち物)」「法曼陀羅(諸尊の種子)」「羯磨曼陀羅(諸仏菩薩の動作)」のこと)
の自性を談じ、重如の月殿には恒に三蜜の自樂を説くにおよんでは、人法法爾たり。興廃いずれの時ぞ。云々」と人法法爾の旨談ぜらるるも、自らその法を能示能説の人の本たるべき旨趣の認めらるるものあり、また同(金剛頂経)開題に「(三十七の金剛あり)。この三十七についてまた能入(覚りを開くために依るべき智慧)の金剛智、所入(覚りの結果)の金剛定、能証(覚りを開いた人)の金剛人・・」をあげ「此経には能く是の如き三十七尊、三十七の王三昧(最も優れた三昧)とを説く故に金剛頂と名ずく、云々」と釈せらるるがごときは明らかに本有金剛の人の実在を示すものである。
されば真言密教にては、寧ろ「人」を本とし、「法」をば人の自覚の内容と見、人法主客、本末の関係をして転倒せらるるに至った。かかる解釈は弘法大師の遺書の所々に見ゆるも、近くは吽字義に「(梵字の)摩字」は吾我(を顕す)の義を釈し、人も空なり法も空なり、一切無我空義を摩字の實義となすはこれ因人(覚る前の人)のための遮情(すべてを否定する)の説なり、しかも摩字が吾我をあらわすという実義はかかる無我の法にあらず、この無我法を体得せる毘盧遮那の人にあり」とし、「摩字とは大日の種子なり。一切世間は我我を計すと雖も未だ實義を証せず。唯だ大日如来のみいまして無我の中において大我を得たへり。心王如来(大日如来)既に是の如きの地に至りたまふ。塵数難思の心所眷属誰か此の大我の身を得ざらん。是れ則ち表徳の実義なり。」
或はかの般若心経の如きも一般佛教家は大般若経の心要を説ける霊典と観るを、弘法大師は般若菩薩の内証法門を説ける経なりと釈し給ふが如きは、これ人を本とし、法は人の証見せる三摩地の体なりとなすものである。
その他(大師の)梵網経開題に「夫れ道の本は無始無終也。教の源は無造無作也。三世に亘って変ぜず、六塵(色声香味触法)に遍じて常恒なり。然れども猶ほ示す者なければ則ち目前なれども見えず。説く者なければ則ち心中なれども知らず。雙圓の性海には常に四曼(「四曼」とは、「大曼陀羅(諸仏・諸菩薩など諸尊の形)」「三昧耶曼陀羅(諸尊の持ち物)」「法曼陀羅(諸尊の種子)」「羯磨曼陀羅(諸仏菩薩の動作)」のこと)
の自性を談じ、重如の月殿には恒に三蜜の自樂を説くにおよんでは、人法法爾たり。興廃いずれの時ぞ。云々」と人法法爾の旨談ぜらるるも、自らその法を能示能説の人の本たるべき旨趣の認めらるるものあり、また同(金剛頂経)開題に「(三十七の金剛あり)。この三十七についてまた能入(覚りを開くために依るべき智慧)の金剛智、所入(覚りの結果)の金剛定、能証(覚りを開いた人)の金剛人・・」をあげ「此経には能く是の如き三十七尊、三十七の王三昧(最も優れた三昧)とを説く故に金剛頂と名ずく、云々」と釈せらるるがごときは明らかに本有金剛の人の実在を示すものである。