福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「十善法語」その66

2019-11-06 | 十善戒
此盗戒を古より義に配する。是も的當ではない。義と云は。支那國上代の教で。其字のこころすらむつかしきじゃ。釋名(後漢末の劉熙(りゅうき)著。事物の名を27種に分類し、語源を説明)には。義者宣也。事物を裁制して宜に合わしむる也とある。禮記に父に慈に子に孝に。兄良に弟弟に。夫義に婦聴に。長惠に幼順に。君仁に臣忠ある。之を人の義と謂也とある。戦國の時。告子は仁は内也義は外也と云ひ。孟子は義も内なりと云(孟子は仁義禮知は先天的なものといった)。

今の代に至て。儒者が講釈するにも家々に違ふ。又義の取用ひ様は。古の君子にても人々違ふ。古今一定せぬことじゃ。勿論学生儒生に付して。其義趣を説せて聞ば。面白きことも有べく。古今の事情行跡を鍳みば。治道の一助と成るべきなれども。王公大人でも。学才なければ。其字義すら解し難きじゃ。萬國古今に推通じ智愚に推通じて教へ導く道ではない。

史記(秦本記)に「由餘曰ク、中國ノ亂レシ所以ハ也、夫レ上聖黄帝禮樂ヲ作為セシ自リ、身以之ニ先ジ、僅ニ以テ小治ス。其後世ニ及ニデ日ニ以ッテ驕淫シ法度之威ヲ阻ニデ、以於下ヲ責督ス。下罷極スレバ則チ仁義ヲ以ッテ於上ヲ怨望ス。上下交爭。怨ミテ相篡弑シ。至於宗ヲ滅スル。皆以此類也。」と。看よ。仁義はよく取用れば聖人の道なれども。取そこなへば乱の端となる。

此盗戒と云は。其法性縁起に至ては上徳の聖者も尽されぬ所なれども。盗はせぬものぞ。他の物は妄に用ふるな。借た物は速に反辦せよと云へば。庸夫愚婦まで護持のさせらるヽじゃ。是を初として節操を教へ導かば。聖賢の地位にも至るまじきものでない。誠に上王公大人より。下士庶人樵漁に至るまで。身に行ひ心に得べき道と云べきじゃ。

総じて道は道なりとて。上下智愚に推通じて行はるることならねば。道とは名ずけられぬ。古今に推通じて行はるることならねば。道とは名ずけられぬ。華夷に推通じて行はるることならねば。道とは云はれぬじゃ。此不偸盗戒は。智者も持たねば其智を失ふ。愚者も持たねば刑戮をまぬがれるぬ。王公大人も持たねば國治らぬ。士庶人も持たねば家が齊はぬ。中國繁華の処でも。持たざれば身を失ひ家を亡ずるじゃ。辺鄙夷狄に在ても。持ざれば灾(わざわい)自孫に及ぶ。昔も持ざれば其災ある。後世萬ヽ年の後も。持ざれば其災ある。此不偸盗戒は。萬國古今に推通じて。誠に道とすべき道と云べきじゃ。

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