福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「”見性”の内容」朝比奈宗源老師

2013-09-10 | 法話
「えっ、見性の内容?それは難しいよ君。そうそう西田天香さんという方がいた。一燈園という宗教団体とも新しい村作りともいえる運動を提唱して実際に多くの共鳴者を集めた人なんだが、・・この人がやっぱり見性のような体験があるらしい。村の鎮守さんで座っていたんだな。夜明け近くになって鶏鳴を聞き、ついで赤ん坊の泣き声を聴いたそうだよ。ああ赤ん坊はお乳がほしいと泣いているんだなと思ったとき、”はっ”としたというんだな。赤ん坊は空腹になれば泣く。すると、赤ん坊にふくませるだけの乳はお母さんの胸の中で張っている。
 みんな赤ん坊になればいいではないか。空腹になれば泣き、満腹すれば泣き止む。本来人間という生き物はそうあるべきなのに、満腹した上に”とりこもう”とするから世の中争いが起きる。それが諸悪の根源だ、とね。・・・俺の場合そんな筋書きだったものではなかったからな。しいていえば祖師がたのおっしゃるとおりだった、というきわめて平凡な結論にしか過ぎない。つまりそれまで俺は”俺”にとらわれていた。俺しか見えなかった。それが俺をいやおうなしにとりまいていくださっている「佛心」というものを見たのだ。それは自分を無にしてはじめて見えたのだな。・・その日も経行といって禅堂の中を行道する合図の「拆(きね)」が鳴ったのだ。・・胸の中は空っぽだったのだな・・「佛心」が胸に響いたのだ。「拆」の音がそれだった。自分がそこに座っていようといまいと、「拆」は鳴ったであろうと。・・俺が座ろうと座るまいが「拆」は鳴るんだな。・・俺は独参の鐘が鳴るとほとんど地べたに足がつかない有様で湘山禅師のもとへ駆けつけた。「できました」といった。本当は「拆」の音を確かに聞きました、といったほうがいいだろう。それから老師との間にいくつかの見処と拶処のやりとりがあったがそれはどうでもいい。とにかく俺にとって「死んでも死なぬ」ということなんだなあ。・・俺が死んでも天地は生き生きと生きているだろう。・・それが佛心なんだなあ。仏心とはそれらすべてを包んだもの、その中に我は生き、我は死ぬが、一体なるが故に生死をも越えることができる。俺はその中に生きていたんではなくて、すべてのものの中に俺がいたのだ。すべてのものが俺であり、そういう俺がすべてのものだったのだ。」(「覚悟はよいか」朝比奈宗源)
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